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いぶきネット句会たより

 
いぶきネット句会の会員がいぶきネット句会について書いたものです。ぜひお読みになって、興味を持たれた方はいぶきネット句会の仲間になりましょう。初心者大歓迎です。

 なおこのページは2020年~2022年を掲載しています。過去の「いぶきネットたより」は次の該当年をクリックして下さい。

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  「よもやま通信」ありがとうございました  関根切子(東京)
                            2022年12月


 今年も「よもやま通信」のご執筆ありがとうございました。
今年掲載された「よもやま通信」です。

  「句会の新たな試み」         新井 酔雪
  「鳥籠(とこ)の山ってどこの山?」  浜野 秋麦
  「蕗」                長谷川妙好
  「俳句の背景」            森田もきち
  「観劇」               野崎 雅子
  「今年の枇杷」            鈴木 未草
  「天瓜粉」              髙橋 佳代
  「無言の証人」            有井真佐子
  「四十雀」              恒川 知子
  「木製帆船模型」           小木曽春水

 皆さまの原稿を楽しく読み返しておりましたが、1月の新井酔雪様の「句会の新たな試み」はいぶきネット句会の未来を予測していたかのようで、驚くと共に新たな一歩が始まったのだと改めて思っております。さて、来年も「よもやま通信」のご執筆をお願いする時期になりました。以下おおよその受け持ち月を決めさせていただきました。テーマは自由です。「よもやま」ですので気楽に何でも書いてください。どうぞよろしくお願いいたします。

   1月  新井 酔雪様   2月  野崎 雅子様
   3月  鈴木 未草様
   4月  髙橋 佳代様   5月  恒川 知子様   6月  森田もきち様
   7月  小木曽春水様   8  長谷川妙好様   9月  浜野 秋麦様


 なお、来年から句会報の担当が、私から案内係の山田万里子さん(京都)に替わります。よろしくお願いいたします。私はHP句会へ移動となります。長い間ありがとうございました。




   木製帆船模型
     小木曽春水(名古屋市)      2022年11月

     時の日や順風の帆の模型船   鷹羽狩行

 長年勤務した業種の反動からか、モノづくりへの憧れを強く抱いておりましたが、その欲求を満たす1つとして、10年ほど前から木製帆船の模型を製作しています。

 木製帆船模型は、大航海時代後期(17~18世紀)に実物の帆船へ着工する前のテスト用、あるいは冒険航海のパトロンに対するプレゼンテーションのツールの目的で作られました。その作りが非常に精緻かつ優美であったため、後年は帆船模型を所有することがステータスシンボルとなっていきました。これがさらに木製帆船模型という趣味の世界に発展し、日本へも1970年代に本格的に紹介されました。

 日本で木製帆船模型がブームとなったのは1980年代です。最盛期、銀座伊東屋(文具店)には帆船模型のみを扱うビルがありましたし、なんば高島屋の帆船模型コーナーには専任スタッフが常駐していました。フレッシュマンの小木曽青年もそうした模型店をしばしば訪れましたが、模型キットとそれをつくるための工具が貧乏サラリーマンには手が出ず、泣く泣く断念をいたしました。

 順番が前後いたしましたが、木製帆船模型の作り方を紹介いたしますと、多くは帆船模型の図面と材料一式がセットになった「キット」を購入しています。男性だとプラモデルを想像されるかもしれませんが、帆船模型のキットに入っているのは木の棒と板だけです。これを図面と照らし合わせながら切り出し、接着して船の形を作り上げます。さらに帆を縫い、何種類かの糸を張り巡らせて完成に漕ぎつけます。キットの難易度、作り手の熟練度にもよりますが、1隻完成させるのに、おおよそ3か月から半年くらいかかります。

 キットの価格もピンキリで、値段に比例して材料の数が増え材質も良くなります。10万円を超えるものもざらにありますが、1万円程度のものでも十分楽しめます。ただし、工具類にはかなりの初期投資が必要で、のこぎり、ドリルなどは各種サイズを取り揃えなければなりませんし、塗料も非常に多くの種類が要求される場合があります。電動工具は時間と労力の短縮に直結しますが、1台数万円します。私も帆を縫うためのミシン、塗料を吹き付けるコンプレッサーなどを購入いたしました。やはり、大人買いできる年齢にならないとなかなか手が付けられない趣味なのかもしれませんね。

 ひとくちに帆船といっても多種多様で、キットも非常にたくさんの船が販売されています。帆船と聞いて多くの方がイメージする「カティサーク」のような“ザ・帆船”もあれば、映画にもなった「戦艦バウンティ」、日本の代表的な現代帆船「新日本丸」もキットとなっています。現在、日本では200種類くらい入手できるのではないでしょうか。私はと言えば、こうした帆船らしい帆船ではなく、専ら漁船とかヨットとか、帆船模型の王道から少々外れた船を作っています。それらの船の丸みを帯びたファニーな形状に魅かれているのでしょう。

 最後にひとつ紹介をさせてください。9月の合評会でも一瞬話題になりました帆船模型展のご案内です。私が所属のザ・ロープ・ナゴヤが毎年開催しており、今年で43回目を迎えます。詳細は次のとおりですので、お時間とご興味がございましたらお立ち寄り賜れば幸甚に存じます。もちろん入場無料であります。



   四十雀
         恒川知子(一宮市)        2022年10月

 雑木の茂る我が家は、虫や花を求めて、いろいろな鳥が集まって来る。
メジロ、ヒヨドリ、ツグミ、ジョウビタキ。以前はヤマガラも来たことがある。年中見られるのは、雀、四十雀だ。歳時記によると四十雀は夏の季語となっている。
 冬は虫が少なくなるので、何度も近くにやってきてピーナツをねだる。ピーナツを見つけると、オスだろうか、しきりに番の相手を呼ぶ。それから、高い枝から低い枝と距離を縮め、キョロキョロあたりを確認しエイヤーットとダイビング。ピーナツを銜え「ピ」と飛び去る。(「どうも」という挨拶のようだ。)
 今年の五月のテレビ番組「NHK俳句」で、題「四十雀」が放映された。俳句と映像というユニークな企画。日頃、四十雀を身近に見ているので、大変興味深かった。いくつか俳句をご紹介したい。

   
追ひすがり追ひすがり来て四十雀  石田波郷

 人口に膾炙した句だ。わたしが庭に出るとどこからか四十雀が姿を現す。他の鳥ならすぐに逃げてしまうのに。

   
四十雀開店急かす森のカフェ    大阪府吹田市 翠簾屋信子

 一席の句である。朝カーテンを開けると待ってましたとばかり、やってくる。「急かす」がピッタリだ。

   
我が庭の所属タレント四十雀    名古屋市 園部光

 我が家に来る四十雀は、もう三代目位だ。

   
四十雀植木の町をよいことに    愛知県稲沢市 山田ひふみ

 稲沢市は植木の町なので、木の実やガの幼虫などを食べる四十雀には住み心地の良いことだろう。
 四十雀は、雀と同じか、少し小さく、いつもちょこまか動いている。ピーナツの食べ方も器用。枝の上でピーナツを両足でおさえ、少しずつ啄む。鳴き声は、実にさまざまで、状況によって使い分けているようだ。
 四十雀の言語能力について、八月二十九日の読売新聞の「読売俳壇」で次のような俳句が一席になっていた。

   
言葉もち方言さへも四十雀     越谷市 安居院半樹

 矢島渚男の選で「若い研究者がカラ類の言葉をつきとめて世界的な話題になった。例えば蛇が居るとジャージャーと鳴いて皆に知らせる。蛇の音読みを知っているみたいで愉快。しかも鶯と同様、方言さえあるという。」と選評。
 「若い研究者」と聞いて、以前、BSプレミアム「ワイルドライフ」の「長野・軽井沢新発見 ことばでつながる鳥達」の番組をふと思い出し録画を見直した。鈴木俊貴博士と紹介されていたので、検索してみる。「京都大学白眉センター鈴木俊貴博士」とあり、カラ類が人間と同じような言葉の機能があることを発見し、鳥語研究では世界で最前線をゆく研究者であるとわかった。

   
他愛なき朝の会話や四十雀     知子

 朝、四十雀が来ると、会話も弾み一日の明るいスタートになる。





  無言の証言       有井真佐子(
広島市)      2022.9月


 
2つに折れた水晶の印鑑は爆心地から約600mの堺町で瓦礫の中から見つかった。折れた片方は「吉岡」と刻まれていた。印鑑入れは圧力に押されたのか、金具の上下がくっ付いてベルトのパックルのようになっていた。持ち主は1945年、当時31歳だった吉岡正二、私の父である。広島県警察部の国民動員課に勤めていた。

 8月6日の日は自宅を出て横川駅(広島市西区)を降りた後消息不明に。1週間後、産後間もない母(私、真佐子を7月5日に出産)に代わり義理の兄たちが大八車を引いて探し回った。手掛かりを求めてかかりつけだった堺町の「伊藤内科胃腸病科医院」へ向かったが建物は跡形もない。待合室だったと思われる場所を掘ると印鑑、印鑑入れ。割れた眼鏡レンズ、眼鏡の枠。焼け焦げて針が飛んだ時計。遺骨の一部。全て父ののと断定。よく見つかったと思う。

 父は私たちの元に帰って来たかったのだろう。遺骨と遺品は実家の仏壇に大切に保管、供養してきたが母も亡き今、私が願い出て世界の大勢の人に戦争の怖さを訴え、後世に伝えていきたく遺品は広島市の原爆資料館に寄贈した。前回、書かせて頂いた「無言の証人」に加えてみる。

 市内電車の「原爆ドーム前」で降りて、元安川沿いを歩くと原爆資料館に行く途中に国立広島原爆死没者追悼平和記念館がある。入館無料で駐車場はない。原爆死没者の尊い犠牲を銘記し追悼の意を表すとともに、永遠の平和を記念するため2002年8月に開館した。地下1階、地下2階とあり地下2階には「遺影コーナー」があり検索装置で1人1人の遺影(写真)を見ることができる。




  天瓜粉         高橋佳代(
平塚市)       2022.8月


 
夏の湯上がりにつけるパウダーを汗疹が出来やすい母は「汗知らず」と呼び愛用していた。私も子育ての時は勿論、今でも夏には欠かせない。このベビーパウダーを以前は天瓜粉あるいは天花粉と言い歳時記にも載っている。今や絶滅危惧季語かとも思われる天瓜粉だが、夏になると思い出すエピソードがある。

 定年退職後碁会所へ通うぐらいで無聊な日々を送る夫と、趣味に忙しい妻との二人だけの家庭は淡々とした毎日がただ過ぎていた。妻にとって無口で頑固な夫との仲は喧嘩する程のこともないが、なんとなく淋しさを感じていた。
 妻は俳句教室に通い始めて、そこで覚えた句を台所の壁に貼っていた。ある日の夕食後その中のひとつを夫の前で声に出してみた。

   天瓜粉しんじつ吾子は無一物  鷹羽狩行

 新聞から目を離してきょとんとしていた夫が、ようやく意味を解した表情を見せた。そして「天瓜粉かあ、懐かしいなあ」と感慨深げに言った。「子供の頃よくお袋に付けてもらったよ」と柔らかな笑みを浮かべ、思い出話をしばらくした。もう一度「天瓜粉かあ」と呟いて食卓を離れた。

苦虫を潰したような夫が、優しい顔を見せて話をしたのは久し振りのことだ。夫にも天瓜粉を付けてもらった頃があり、母に甘えた幼い思い出があったのだ。妻は嬉しく晴々とした気持ちになった。

 この夫婦の関係が急に変わったとは思えないが妻の夫を見る目に少しの変化があったことは確かだろう。

 あどけない赤ちゃんの笑顔には、どんな悪人の心も和むように、たった十七音の詩が頑な心に響くことができる。それが俳句だ。とエピソードを教えてくれた詩人が最後にそう付け加えた。 
                     (小田原の詩人 光山樹太郎氏より)




  今年の枇杷       鈴木未草(知多市)       2022.7月


 我が家には古い枇杷の木がある。大きくなってしまったので、実を採るのは一苦労する。ご存じのように枇杷は冬に地味な小さい花が咲き、初夏に小さい青い実を付ける。梅雨時になると独特の形の鮮やかな色に熟す。 食べ時になると鳥が来るので、ああ早く採らなくてはと長い剪定ばさみを取り出し、大きい実は生で食べ、その他は皮を剥き実を取り出してジャムにする。

 ところが、今年の枇杷は惨敗だった。数は多いが実は小さく、あまりおいしそうではない。しかも梅雨入りが遅く鳥たちの食べ放題。彼らは夜明け前に集団で来る。私が起き出す頃には既に食べごろの実が落ちている。 何十個という残骸が道路、車のボンネットに干物を干すかのように等間隔で並べてある。不思議なことに皮だけで種は見当たらない。こんな事は今までなかった。つついた跡がある程度でもっと遠慮深かった気がする。

 お陰で一週間というもの毎朝その始末。犯人は不明だったがある日帰宅すると一斉に飛び立ったのが雀たち。なるほど君たちでしたか。満足できましたか? ようやく梅雨入りし、枇杷の実は半分に減っている。

   銀色の雨粒乗せて枇杷熟るる   未草



観 劇            野崎雅子           2022.6月

 無名塾、仲代達矢の「左の腕」を観た。松本清張原作の時代劇。

江戸深川に、父と娘で、父の飴売りでやっと暮らしている。隠したい過去を持つ卯助。同じ長屋に住む銀次が板前をしている料理屋「松葉屋」に、父子共々働けるようになり、穏やかに暮らしている。

しかし、「松葉屋」に出入りしている目明しは、卯助の左腕に常に巻かれている包帯、その下に隠されている傷痕を見逃さなかった。押し入りの罪で、島送りの過去を持っていた。原作は読んでいなかったので、どうなるか観ていたが、最後は、親子は無事料理屋で働く事になり、一時間半の劇は、三回のカーテンコールで幕を閉じた。

家に帰り、パンフレットに

「一度罪を犯した人に対する不寛容さは、あの大戦を引き起こしたそれと重なる。自分は喘息とアトピーの持病があるので、本当は映像の世界の方が楽なのではと思うが、役者が生の力で訴える事が出来るのが、演劇だから。どうにか、こうにか、此処迄来れた。あと一歩、もう一歩、芝居の力を、私は信じてみたい。」

という仲代達矢の一文を読み、自分の身を削って演じてくれている。そして、このような感動を与えてくれている。その思いをしっかりと受け止めたいと思っている。



俳句の背景          森田もきち          2022.5

 

 千葉県北部に位置し利根川に続く印旛沼は、江戸時代から水運・水害対策・新田開発などのため何回も干拓事業などが行われてきた県内最大の湖沼です。

周辺には国立歴史民俗博物館・ナウマン象発掘地・佐倉ふるさと広場・県立印旛手賀自然公園などありますが、中でも甚兵衛渡しは歌舞伎「佐倉義民伝」で知られる所縁の地で、承応年間(一六五二~五五)佐倉藩の過酷な年貢の取り立てに苦しむ農民のため、幕府に直訴しようとした公津村(現成田市)の名主佐倉惣五郎を、渡し守の甚兵衛が禁を犯し深夜に舟を出して藩の追っ手から逃がし、自らも自殺を遂げたという渡船場跡です。

印旛沼周辺に住友不動産経営の泉カントリー倶楽部があり、住友グループのよしみで千葉県在住0Bのゴルフコンペが時折開催されますが、その途中印旛沼畔には川魚料理屋が数軒あり、その裏手の葦の合間に使用しなくなった小舟が舫いされたまま放置されている光景は感慨深いものがあります。

 春になり都川の付近を散策していると、野良着姿で仕事の合間に私達が餅草とよんだ蓬を摘んで、草餅を作ってくれたお袋の姿が切なく思い出されます。桃と菊と栗の板の型があり、草餅に型を付けるのが子供心に楽しみでした。



  蕗              長谷川妙好            2022.4月    

 

 三月に入っていつもの散歩コースで蕗の薹を見つけた。個人のお宅の庭である。あまりの鮮やかさに思わず数をかぞえてしまった。広い庭のあちこちにさみどり色が二十余りも顔を出していた。

 このお宅は塀もなければ生垣もない。路地続きに庭があり、奥に木造の古い家が建っている。庭のまん中に井戸があり、大きな火鉢がいくつも植木鉢として再利用されている。梅干しを漬ける甕もいくつか並んでいる。縁の下には稲架を作るときのための丸太が突っこんである。子どものころを思い出させてくれる、なつかしいものにあふれたお宅である。

 二週間ほどして再び通りかかると蕗の薹は青々とした蕗に変わっていた。

「蕗になりましたね」

 庭の掃除をしていた住人の女性に思わず声を掛けた。名前も年齢も知らないけれど会えば挨拶はする。時には短い会話も交わす。

「この蕗は苦いんですよ。昔ながらの味です。蕗の薹も苦いんです」

「わかります。田舎で子どものころ食べたことがありますから」

「蕗が育ったらよかったら取りにきてください」

「ありがとうございます」

 礼を言って別れた。

 母が元気なころは田舎に帰ると蕗を土産に持たせてくれた。細いし灰汁が強いので調理に手間がかかり、家族も好まないのでうれしい土産ではなかった。竹藪の湧き水のそばにいっぱい生えていて、それを母と一緒に取る。指先が焦げ茶色に染まる。母はたくさん持たせようと一生懸命取るのだが調理の手間を考える娘は乗り気ではない。蕗よりも蕨とか薇などを取り置き、下処理しておいてくれた山菜や筍の方がうれしかった。その母も今は施設暮らしで山菜を採って持たせてくれることはもうない。

 新潟がふるさとの友人がいる。春になるとふるさとの兄夫婦からこごみや山独活が宅急便で届く。そのお裾分けをもらっていたのだが、高齢と病気で山に入れなくなったからと届かなくなって久しい。

「あの味がなつかしいよね」

「もう一度食べたいね」

 山菜の季節が来るたびに友と交わす会話である。

 もしあのお宅の蕗がいただけるのなら、久しぶりになつかしい苦みに出会えるかもしれないと密かに楽しみにしている今日このごろである。



鳥籠(とこ)の山ってどこの山?    浜野秋麦                  2022.3月

 以前にこの欄で、近江の歌枕について書かせていただいたことがあります。「吟行にいらした時には歌枕巡りなど如何ですか。」と結んでいます。今のご時世小旅行と云えど、なかなか難しい状況ですので、せめては紙面で紹介してみようと思います。

ちなみに辞書には、歌枕とは「古歌に読み込まれた諸国の名所」となっています。身近な所からと探しますと、私の住む彦根市内にもありました。

   犬上(いぬかみ)の鳥籠の山なる不知哉川(いさやがわ)

         いさとを聞こせ我が名告(の)らすな

              万葉集巻十一2710 詠人知らず  

犬上とはこのあたりの郡名で甲良町、多賀町など今も残っています。不知哉川というのは現在の芹川であろうと特定されています。「犬上の鳥籠の山なる不知哉川」が、「いさ」を引き出すための序詞(じょことば)として使われています。「犬上の鳥籠の山にある不知哉川の名のように、さあ、知らないと言って私の名を明かさないで下さい。」くらいの意味でしょうか。「名告らすな」と云うのは言霊の息づいていたこの時代にあって、名前を知られてしまうということは、大きな意味をもっていたから、と解釈することが出来ます。

もう一つ、同じ地名の詠まれた歌として

    淡海道(あふみぢ)の鳥籠の山なる不知哉川

      日(け)のころごろは恋ひつつもあらむ

              万葉集巻四486 崗本天皇

全く同じ地名がセットで使われています。不知哉川までが序詞として使われていることも変わりません。「淡海道の 鳥籠の山にある不知哉川の、いさ(不知)というように先のことは分らないが、ここしばらくは恋い慕っていよう」くらいの意味でしょうか。

さて、不知哉川は現在の芹川として、鳥籠の山はいったいどこの山だったのでしょうか。キーポイントとなるのは東山道です。東山道には「鳥籠の駅」があったと伝えられており、近くの山が鳥籠の山と呼ばれていたようです。東山道と芹川の交わるあたりと考えると、従来から説のある「正法寺山」「大堀山」が有力候補になります。現在の地図には正法寺山も大堀山もありませんが、正法寺町にある「鞍掛山」が第一候補で間違いないと思います。(芹川の対岸の大堀山とおぼしき丘の麓「旭森公園」に歌碑があると聞いていますが、未確認です。)

いずれにしても、巨大古墳と比べても見劣りするくらいの小さな丘です。こんな所が歌枕として定着したのは不思議ですが、平安時代も中期以降には東山道の旅人が増え実際目にする機会も多く、なだらかな山容に愛着を抱かれたのでは、とする説があります。

鳥籠の山の名が歴史に登場するのは壬申の乱が初めではないかと思います。緒戦の「息長(おきなが)の横河」で敗れた近江(大友の皇子)軍が、追撃する大海人皇子の軍に反撃した所とされています。

二番目の歌の作者「崗本天皇」は岡本の宮で統治した天皇の意で、舒明天皇または(舒明天皇の皇后であった)斉明天皇であろうとされています。舒明天皇であれば天武天皇(大海人皇子)の父にあたり、鳥籠の山は朝廷との因縁も浅からぬ場所であったことが伺えます。

余談ですが、舒明天皇の諡号は息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇とされ、壬申の乱の緒戦の地
「息長」とも無縁ではないようです。この戦いはまた「息長川の戦い」とも呼ばれ、息長川は現在の天野川であり、その川口は「朝妻の湊」で、これもまた歌枕の地です。



句会の新たな試み        新井酔雪             2022.2月     

    

 コロナウイルスの影響も弱まり、やっと句会ができるようになったと思ったら、また元に戻ってしまった。それでも十一月、十二月と、句会を行うことができたのは幸運であった。久しぶりに句会の仲間の笑顔を見るのはうれしものだ。

それにしても、俳人はたくましい。会って句会ができなければ、会わずに行う句会を考えるのだから。

「いぶきネット句会」とほぼ同じようなやり方をしている句会がある。電子メールで投句と選句を行い、係が投句一覧と選句一覧を作成して配信しているのである。電子メールをやったことがない人はどうしたかというと、この際にやり方を覚えたそうだ。句会の仲間に教えてもらった人もいるという。

句会の仲間のほとんどが電子メールをやったことがないところは、郵送でやっているとか。葉書で投句し、ワープロで投句一覧を作成し郵送する。そして、選句は葉書。これはなかなか大変である。だから毎月ではなく、隔月で行っているそうだ。

インターネット上の無料のサイト「夏雲システム」を導入している句会もある。このシステムのサイトから投句や選句をすると、自動的に投句一覧や選句一覧などを作成してくれる。「夏雲システム」に登録してあれば、これらの資料を自由に閲覧できるのである。

さらに、この「夏雲システム」にズーム(zoom)を取り入れている句会もある。ズームというのは有料のテレビ電話である。パソコンの画面に句会の皆の顔が映り、話し合うことができる。そして、その画面に資料を提示することもできるのである。ちょっとした句会の雰囲気だ。

俳人は転んでもただでは起きない。病気になったら病気の句を詠む。句会ができなかったら工夫をして句会を行う。この気概がある限り句会はなくならない。

句会に入りたいが入ることができない伊吹嶺会員のために考えられた「いぶきネット句会」。当然のことながらコロナウイルスの影響を全く受けていない。ありがたいことである。先人のご努力があって今の句会がある。感謝、感謝である。これからもいぶきネット句会員の皆様とともに俳句を学んでいきたいと思う。




雁のねぐら入り          高橋佳代            2021.12月

         
    古九谷の深むらさきも雁の頃       細見綾子

 冬の淡い夕焼けを仰いで私たちは待っていた。枯れ葦の取り巻く蕪栗沼の畔は十一月末の日が落ちると雪や風がなくても、かなり冷え込んできた。沼の片隅には白鳥やオオヒシクイの小さな群れが、水に首を突っ込み真菰の根を食べている。真菰のない広い水面は黒ずんだ空を映して静かだ。
誰かが声をあげ指さす彼方を見ると、遠い山際に薄く刷毛で書いたような筋が現れた。
それがはっきりと雁の群れだと私にも感じられる頃には、四方八方から同じように鉤になり竿になった群れが此方に向かって来る。まるで山脈から限りなく湧き出るようだ。

やがて私たちが立つ上空はおびただしい雁の飛翔と叫喚が渦巻き、それをただ呆然と仰いだ。すでに夕焼けは消えて薄暗くなった空に月が輝きだし、次々と横切る雁の姿を浮かび上がらせるのだった。

 旋回していた万羽の一羽が沼に降り、続いて数羽が着水すると、無数の雁がたちまち水面を埋めていく。絶え間ない動きに目を奪われている間にも、さらに暗くなった空を遅れてきた群れが旋回し着水する。こうして沼はほぼ覆いつくされてしまった。限りがないと思われていた騒ぎも、ようやく終えて落ち着いたが、ざわめきが治まり眠りにつくまでには今しばらくかかりそうだ。

 此処へ来る雁の多くはマガンである。雁の番(つがい)の絆は強く一生添い遂げ、その夫婦と子供たちを中心とした家族が集団の基礎単位であり、いくつかの家族が集まって群れを作る。沼に降りた家族は寄り添いながら子どもが眠り夫婦が眠りにつくだろう。そんなことを思いながら、カンテラの灯に促され沼を離れた。

 マイクロバスに乗り込み、しばらく冬田の道を走っていると、道脇の田に激しく動くものが見えて車が止まった一羽の雁が懸命に羽をバタつかせては飛ぼうともがいているのだった。傷ついているのか、数メートルを動くだけで力尽きてしまう。何度も繰り返すのだが飛び立てない。やがて車は再び走り出し、運転手が言った。「そのうち狐が来て・・・かわいそうだけど・・・」車内は驚きの声の後、沈黙がつづいた。 

 バスがすっかり暗くなったデコボコ道を揺れながら走ると、ヘッドライトも揺れながら道端の枯草を浮かび上がらせていた。


詩吟と漢詩             鈴木未草             2021.11月            

 詩吟を習い始めて十年近くになる。最初は絶句と呼ばれる四行詩だった。漢詩は高校以来見たことがなく難しそうだったが、テキストには全て書き下し文が載っていて記号で音程が分かるようになっていた。つまずきながらも勉強するうち、少しずつ漢詩の良さが分かってきた。

 私の好きなのは、スーパースターの李白である。そのオーバーで率直な表現が豪胆な生き様と相まって心躍らせ、また、泣かせるのである。単なる風景描写でも、まるで映画を見ているような気分になるのである。その代表的なものが「白帝城」。唐詩を代表する四絶句の一つである。

 早朝に白帝城を舟で出て江陵まで下る様子を詠じたものだが、白帝と彩雲で色の対照、千里と一日で数、両岸に悲しげな猿の鳴き声を聞きながら、軽い小舟が幾重にも重なる山の間を過ぎゆく軽重、朝と夕暮れの時刻の対照などを折り込んで構成されている。見事である。

 李白の詩はどれも素晴らしいが「春夜聞笛」「贈汪倫」「峨眉山月」は特に好きで、詩吟の大会でも歌った。そして、好きな詩句は習字の作品に選び、イメージしながら書くのである。まさに一粒で二度おいしい。詩吟をやって名詩に触れる事ができてほんとに良かったと思う。


大和葛城を散策            野上千俊               2021.10月  

   …古代のロマンを探る

 約四十年前大阪市内から奈良に移り住み、初めて群生する彼岸花の美しさを知りました。奈良では明日香の彼岸花が有名ですが、私は葛城一帯に延々と続く彼岸花の赤い帯に強く心を打たれました。葛城には数多くの古寺や古社があります。それらは九月には彼岸花の紅い帯で繋がり、この帯が道案内をしてくれます。しかし、葛城の彼岸花を鑑賞に訪れる人は少なく残念でなりません。花といえば、葛城山には一目百万本と形容されるほど壮大な躑躅群が自生しており、五月には山の斜面が見事に赤く染まります。

さて、この葛城地方には「葛城古道」が葛城山、金剛山の東麓を南北に通っています。近鉄御所駅からバスに乗り換え、猿目橋停留所を降りるとそこが古道の入り口です。古道はここから終点の風の森停留所まで南へくねくねと約十km続きます。葛城、金剛の両山は神宿る山として古くから崇められており、この一帯は神々の里として神話の舞台になっています。古道の周辺には古事記や日本書紀に登場する数多くの文化遺産や遺跡があります。また、この地は大和王権成立以前より鴨氏や葛城氏の支配地として大いに栄えていました。国宝指定と云った際立つものはありませんが、方々にて古代のロマンを感じることができます。 

前置きはこれ位にして、さあ古道を北から南へ歩きましょう。道中には見所が多いため終点までは五、六時間かかります。ここでは独断と偏見で次の四カ所を案内させていただきます。

 

九品寺(くほん寺)

聖武天皇の勅願により行基が開創した古刹です。九品寺はサンスクリット語で、その意味は布教でいう上品・中品・下品で人間の品格をあらわしています。これら三つの品の中にも上中下があって全部で九つの品があるので九品と名づけられています。本尊の木造阿弥陀如来像は平安期の制作で重要文化財に指定されています。また、本堂の裏の鬱蒼とした森の中に立つ千八百体の石仏には圧倒されます。これらは南北朝時代、南朝軍として戦った地元兵の供養のため村人が奉納したと云われています。

 

一言主神社(ひとことぬし神社)

全国にある一言主神社の総本社で深い森の中にあります。一言主大神と雄略天皇の関わりが古事記や日本書紀に出ています。本殿への石段を上ると大きな銀杏の木が目に飛び込んできます。樹齢千二百年の「乳銀杏」と呼ばれるご神木で高さは二十m以上あります。銀杏の幹に乳房のような気根がいくつもあることが名前の由来です。創建年代は不明ですが、平安時代の延喜式神名帳には由緒ある神社として名神大社に列せられています。境内には松尾芭蕉の句碑「猶見たし花に明行く神の顔」が建っています。

 

高天彦神社(たかまひこ神社)

参道の老杉は天を衝くばかりの威容を誇り、神社には荘厳な雰囲気が漂います。祭神は葛城氏の祖神である高皇産霊神(たかみむすびのかみ)で背後の美しい円錐型の山白雲嶽がご神体です。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は天照大神の子と高皇産霊神の娘との間に生まれていることからこの地に相応しい神と云えます。創建年代は不明も延喜式神名帳には古くより霊験が著しい名神大社とあります。神社へと向かう途中、田畑が広がるだけの何の変哲もない台地の中に、ポツンと「史跡高天原」の石碑が建っています。ここから瓊瓊杵尊が高千穂の嶺に下ったと云うのです。

 

高鴨神社(たかがも神社)

弥生期より祭祀を行う日本最古の神社の一つで、鴨氏の氏神社です。境内にある摂末社は十八にものぼり、桧皮葺きの本殿は室町時代の建造物で重要文化財に指定されています。祭神は大国主命の子である阿遅志貴高日子根命(あぢしきたかひこねのみこと)です。京都の上賀茂、下鴨をはじめ全国にある賀茂社の総本社です。延喜式神名帳には霊験あらたかで、あの大神神社(おおみわ神社)と同格の最も格式の高い名神大社とあります。境内入口の鳥居の横に釣鐘堂があります。神仏習合の名残のようです。鳥居を出ると古道終点の風の森停留所へは約十五分です。



つばめ               有井真佐子           2021.9月
                   

 つばめが今年も飛んで来た。主人が永眠し一人暮らしになると、生きているものが身近にいれば、心が明るく元気が出る。

我が家は古民家で明り取りとして土間の通路は裸電球。そのためのコードも丸出しだ。これが燕にとっては格好の止まり木になっているようだ。一昨年来た燕はその前に来た燕の巣に濡れた土を継ぎ足し巣作りした。今は田んぼの畦も全部ではないがプラスチック製のもので代用しているのを時おり見かける。濡れた土が不足していて燕は苦労しているようだ。

話は違うが、今年の燕にはもっと驚かされた。裸電球とコードを利用して泥で丸い小さな巣を作ったのだ。あの大きさで燕の子を育てられるのかなと思った。人間の世界でも少子化が進んでいるが燕にも?

その為か、あまり賑やかなピイチクのさえずりを聞かないうちに燕は飛び立って行った。

              つばめつばめ泥が好きなる燕かな   綾子

             巣燕の寝る時は皆寝るらしき     綾子



コロナ禍に思う           関根切子            2021.8月 

 今月のネット句会に投句された長谷川妙好さんのお句、『沁み渡る「みるく世の謳」慰霊の日』。恥ずかしいことに私はこの「今年の平和の詩」の存在を知りませんでした。ネットで全文を読み、涙が零れました。心に沁み渡る詩でした。

 十五年近く仕事で高齢者のお宅を訪問していますが、戦争を体験された方がたくさんいらっしゃり、時に戦時下の話を伺うことがあります。どなたの体験も衝撃的な内容なのですが、静かに語られるその話は悲しみも怒りもなく、まるで思い出話をしているかのようです。

 揚子江で船が沈み、マストにしがみついて一人助かった話。グアム島で捕虜となり、通訳をさせられた話。その方のお兄さんは人間魚雷の訓練生だったとのこと。順番が来る前に終戦となり、今もお元気だそうです。挺身隊として浜辺で砂鉄を採りながら東京に向かう爆撃機を見ていた話。幼い弟と空襲を逃げ回り、翌日に白鬚橋を死体をよけながら帰った話。家は焼け落ちていたそうです。泣きながら行った学童疎開のこと。玉音放送に泣いた女学生の頃の話。三年九ヶ月に及ぶ戦時下を人々はどんな思いで暮らしていたのでしょうか。

 そして今コロナ禍を私達は不安と不満の中に暮らしています。感染し亡くなられた方、仕事を失った方がたくさんいます。感染者はまた増加していて、医療の逼迫が危ぶまれています。その一方で町中には人が溢れ、物が溢れオリンピックが始まり、変わらぬ生活を続けているのも事実です。

 私達は感染を防ぐ方法を知っていて、ワクチンも用意されています。明日命がなくなるわけではないのです。私は今が戦時下でないことを本当に感謝しています。毎日を恙なく暮らせることに感謝せずにはいられません。

上原美春さんの「平和の詩」最後の一文です。

 みるく世を創るのはここにいるわたし達だ


 西の湖だより             浜野秋麦          2021年7月
           

 以前に、琵琶湖の内湖のことを書かせていただいたことがあります。続き、という訳ではありませんが今回は、西の湖のことを少し書こうと思います。

 昨年のコロナ禍以来、不要不急の外出もままならず、週一で近江八幡に通うだけになってしまいました。田舎町とはいえ飲食の場での感染が多いのは変わりなく、気楽に食堂、喫茶店に入る気にはなりません。勢いコンビニで買い物をして車の中での飲食ということになります。しかし、コンビニの駐車場ではあまりにも味気ない。どこか落ち着いて景色の良いところはと考えるうち、彦根から近江八幡へ向かう途中、安土辺りで少し寄り道をすると、西の湖のほとりに出られることに思い至りました。

 西の湖は、現存している琵琶湖の内湖としては、最大のもので二平方キロ強の広さがあります。今は全て農地となってしまった大中の湖の南側、安土城址の西側に小中の湖と並んであります。(小中の湖も干拓されています)西の湖が残ったのは、干拓の当時淡水真珠の養殖が盛んであったことも一因と言われています。西の湖は葭原に囲まれた浅い湖で、鮒、鯉、鰻はもとよりモロコ、スジエビ等の漁が盛んで周辺七つの村で漁が行われていました。今でも豊かな自然が残っており、葦簀の原料となる葦の刈取り、製品化が行われている唯一の地域です。

 こうして、食事や休憩のためとは言いながら、日常とは違った風景の中に滞在するのは、ミニ吟行の気分にもなります。実際この頃の作句は西の湖周辺が多くなりました。

さて、西の湖のほとりに出るには二通りの道筋があります。一つは伊庭内湖(干拓以前は大中の湖の一部)のほとりを通って大中の干拓堤の上を丸山の辺りに出る道です。湖の端に当たるので眺望は少し狭くなりますが、集落の中に入るとどことなく漁村の雰囲気が残っています。

 西の湖の入江深きに浮寝鳥     秋麦

 湖越しにサイロ見ゆるや春の風   秋麦

 

 もう一つは、朝鮮人街道(江戸時代に朝鮮通信使が通ったことからこの名があります。中山道に並行して湖岸近くを走っています。)を安土駅のあたりから大中の方面に北上します。道沿いに小さな港、福祉関係の公共施設などがあり、こちらが湖の表玄関と云えます。港に突き出した半島のような一画は昭和の末に別荘地として開発されたところで、小洒落た住宅が並んでいます。

 

冬空にパラグライダー湖黙す    秋麦

 西の湖の小波白し行々子      秋麦

当分は、こうした一人吟行の状態が続くのでしょうか。句友諸氏と賑やかに吟行できる日が早く戻ってくるように祈っています。

 


北海道の思い出                森田もきち          2021年6月
 

    鈴蘭や小樽に絶えし鰊群来    もきち

 

 今年は例年よりも早く庭の一隅に鈴蘭が咲きました。鈴蘭は入社四年目、昭和三十四年最初の転勤地小樽を懐かしく思い出させ、 かつ母親の愛情をしみじみ感じさせる想い出の花です。

小樽、東京、大阪を経て昭和四十八年横浜に転勤。その春実家に帰ると庭に鈴蘭が咲いています。八王子に鈴蘭は夢の花なので吃驚して母に聞くと「お前が札幌から送ってくれた切り花だよ」との事。当時札幌の独身寮に居たので日曜日には札幌市内を散策。五番館デパートとJALの企画で鈴蘭の切り花を航空便で地方に発送していたのを利用、実家に送った鈴蘭を母が鑑賞後庭に挿したのが根付いて毎年咲いているとの事。数株を横浜の社宅の庭に移植。その鈴蘭が今我が家の庭の鈴蘭なのです。札幌から八王子、横浜、そして千葉へ。六十二年経過の鈴蘭。時の流れを感じます。

 

  リラ咲くや白壁映ゆる時計台     もきち            

 鈴蘭に北海道時代が懐かしくなり、アルバムを引き出し当時を偲びました。カラー写真が始まった頃で、若手社員にはカラーフィルムが高価で簡単にシャッターは押せず、アルバムも殆どは白黒写真です。その貴重なカラー写真に札幌の時計台があります。

時計台は北大の前身である札幌農学校の施設として初代教頭であるクラーク博士の構想に基づき明治十一年に建設され、現在は札幌市を代表する名物スポットとして観光客を集めています。


                            

後ともよろしくお願いいたします    三浦かどか        2021年5月
   

 伊吹嶺に入会して約二年。物をじっくり観察するというたちでもないし、ひらめきというものに恵まれてもいない私は毎月五句作るのに精一杯である。「たくさん作ってたくさん捨てよ」なんて言われても、たくさんできないのだし、せっかく作った俳句を捨てるなんて、もったいなくて私にはどうしてもできない。その上、推敲が苦手で切字「や」を使うのにとても勇気がいる。そんな自分は俳句には向いていないと今頃になってつくづく思う。有名な人の俳句を読んで楽しんでいるのが読書好きの私には一番ふさわしいのかもしれない。

そんな私がどうして俳句を始めようとしたのか。第一に、日本語が好きだから。第二に、趣味の琴のような道具が要らないし、どこでもできるから。しかし俳句はそんな生易しい物ではなかった。ただ、ネット句会でみんなの意見や感想を聞くのが楽しみで、やめる勇気も出ないでここまで来てしまった。

しかし、そうこうしているうちに、思いがけないことが起きていた。アメリカ在住の娘とスカイプで時々俳句について話しているのを聞いていた二人の孫たちが俳句に興味を持ち、作り始めたのだ。そして兄の方は去年今年と海外子女教育振興財団への多数の応募作品の中から選ばれ、賞状とメダルを贈られたのだ。

   たんぽぽの綿毛日本へとんで行け     (兄小二の時)

   僕はクジラ弟はイルカ夏のゆめ         (兄小三)         

 また偶然、現地校でも英語で俳句を作る授業があったとかで、小一の弟は英語の俳句を先生に褒められたと言ってその後英語での句作に夢中になっている。

 

Little falling leaf used to be green, now red crunch, I stepped on you    (弟小一) 

 私にはこれらの俳句のよしあしは全然わからないのだが、孫たちは俳句らしきものを作るたびに「おばあちゃん見て。」とメールをよこす。おまけに私と娘の会話を聞いていた兄の方は、意味もわからないくせに生意気にも
「おばあちゃん、僕のこの俳句、具象?」などと聞いて来る。これでは「おばあちゃんは俳句やめようかと思っているの」とは言えなくなってしまった。こんな具合なので、孫たちに背中を押されながら、もうしばらくは私なりに頑てみようと今は覚悟を決めている。

皆様、どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。


三泊四日           長谷川妙好            2021年4月  
                          

 旅行ではない。日赤での入院日数である。

 昨年末いつものようにベランダに洗濯物を干しに出た。冬晴れの青い空が広がっていた。ただしいつもより冷えていた。干している途中に胸に痛みがあり、あれっと思ったが最後まで干した。部屋に戻っても痛みは消えない。床暖房に胸を押しつけ暖めた。冷や汗がでてくる。慌てて蒲団に入った。一時間たっても胸の動悸と冷や汗が止まらない。その上吐き気がしてきて嘔吐と下痢。これは普通ではないと思い夫に休日急病診療所に連絡してもらった。その日は日曜日であった。車で中村区の診療所に向かった。折からのコロナ対策で玄関の外での診察であった。その場で日赤病院への紹介状を書いてもらい日赤に向かった。すぐに対応してもらえた。顔面蒼白で血圧が七十からなかなか上がらなかったらしい。電気ショック治療をする前になんとか元に戻った。その際医師から「不整脈です。カテーテルアブレーションという治療法があるので正月に家族とよく相談してください」と言われた。帰って夫とネット検索して調べた。精神科医をしている息子とも相談した。「僕の専門外だから循環器の医師の指示に従った方がいいよ」とのこと。正月明けに診察に行くとまたカテーテル治療を勧められた。心臓の不調などそれまで一度も経験したことがなかったし、自覚したこともなかったのでずいぶん迷ったが手術を受けることにした。

   入院の前夜音なく雪しぐれ    妙好

節分の日に入院。翌日の立春に手術。若いころ盲腸の手術をして以来の手術である。午後から宇宙船のような手術室に入った。局部麻酔で手術の様子も先生達の会話もみんな聞こえる。拘束ベルトで締め付けられているのでどこも動かせない。太ももから血管にカテーテルを入れ高周波通電で焼き切るとか。最初に不整脈を起こした原因部位を探るため人工的に不整脈を起こす。ドンドーンと胸にくるのでこれがけっこうきつい。その後通電。「○○ボルト三十秒通電」「ストップ」との声が同時にかかる。四人もの先生がモニターで見守ってくださっている。先生達の相談内容も聞こえてくる。「通電三十秒」「再度三十秒」「もう少し長めに」「四十秒」と試行錯誤の様子も聞こえてくる。最初はまな板の鯉状態で冷静であったが、四時間にも及ぶと緊張状態が途切れ精神が疲弊してくる。先生を信頼していても「ストップ」の声が一瞬遅れたらどうなるんだろうとよからぬ想像がよぎる。最後に再度人工的に不整脈を起こし、原因部位が取り除けているか確認する。

何はともあれ手術は終わった。手術後も出血の心配があるので一晩中右足を拘束されたが無事退院できた。

    退院の朝耀ふ花ミモザ      妙好

晩学で俳句を初めて四年が過ぎた。楽しさも難しさも少しずつわかってきた。せっかく手術していただいたのだからあと少し俳句に関わっていたいなと思う今日このごろである。



十年日記           野崎雅子             2021年3月

 五年前に九十三歳で逝った父は、若い時から日記を書く習慣があり、私も文字が書けるようになってから、暮になると本屋で日記を買ってもらっていた。毎日きちんとというより、思いついたときに書いていた。白紙のページは「この日は書くことがなかった日」と、気楽に思っていた。

 日記を書く事は自分の習慣になり、暮になると自分で日記を買っていた。

 それは結婚してからも続いた。一日の終わりに日記を開き、今日の出来事、思いを書くと気持ちが落ち着いた。四十歳の時、生活情報誌「通販生活」を購読していたが、その中に「十年日記」があった。毎年日記を買う事も楽しみのひとつでもあったので、十年も一冊なんて味気ないと迷ったが、買った。

 一ページが十年分に分割されているので、今迄にくらべると、メモ程度の書く量で、最初ものたりなかったが、慣れると気楽でよかった。

 もう少しで十年という頃に「通販生活」から、次の「十年日記」の申し込み用紙が届いた時は驚いたが、迷わず注文した。

この様にして、四十歳代、五十歳代、六十歳代の日記を書き終えたが、昨年は「通販生活」からの葉書が届かない。

 行きつけの本屋に行き、「十年日記」がないか聞くと、「丸善」にあると、調べてくれた。

 早速出掛けると、日記のコーナーに、いつもの黒色カバーと赤のカバーの「十年日記」

が並んでいた。私は迷わず赤の「十年日記」を求めた。もしかして書き終える事はできないかもという気持ちも過ったが、それならそれでもと思い買った。

 「十年日記」をつけてみてわかった事は、改めて人間は自然の中で生きているということ。というのは、その季節になると出かけたくなる所が、毎年同じ頃になり出掛けている。又思いにより時間の経過の感じ方が違うという事を確認できる。

 今年も、もう二月になった。今白紙の所にどんな出来事を、言葉を埋める事になるのか楽しみである。


山コロナ禍の中で       新井酔雪          2021年2月

 思えばコロナウイルスに振り回された一年だった。そして、今年もその影響から逃れることができないでいる。

「伊吹嶺」の各行事、各支部の行事も規模を縮小しての開催。各支部の新年俳句大会もしかりである。中でも制度が変わってから、初めての愛知支部の「俳句鍛錬会」の無期限延期は残念であった。また、インターネット部主催の「オフ句会」も下見までしながら無期限延期となった。

 そんな中、「いぶきネット句会」と「HP句会」は、当然のことながら通常通りに実施されている。インターネットの力である。しかし、「伊吹嶺」の各句会においては、無期限休止したところ、インターネットを利用した句会に切り替えたところなどがあった。

 インターネット部の成果を挙げれば、「オンライン句会」を立ち上げたことである。今年になって、「夏雲システム」を導入し、名前を「葵ネット句会」と改めた。「夏雲システム」というのは、投句一覧や選句一覧、選評などを自動的に作成する無料のサイトである。

 わたしごとになるが、自身の生活も一変した。午前中は学校、これは変わらない。午後の生活が変わった。毎日行っていた水泳と散策ができなくなった。飲みに行くこともできない。お蔭でコロナ太りで、医者から糖質カットを言い渡された。

 作句の方は大きな変化はない。散策で一句、季語で一句、週刊百科「日本の街道」の写真で一句、俳句のトレーニング本で一句を目指す毎日。それが散策でなく、身辺詠に替わったぐらいである。目標は達成できるときもあれば、できないときもある。

 コロナ禍に関わる句も詠もうと思うができずにいる。しかし、「いぶきネット句会」を見ると直接コロナ禍を詠んだ句、またはその匂いのする句を見ることができる。「伊吹嶺」誌も同様である。

 逞しいものである。こんなコロナ禍の状況の中でも、それを題材に詠もうというのである。俳人はただでは起きない。病気になったら、病気になった句を詠む。自分も身内が亡くなったときも作句していたし、卒業式の典礼をしながら句を詠んでいた。工夫すればどこでも句は詠める。

 コロナウイルスの影響で外に出られないので、いつも戸外に出て作句する方はなかなか大変である。しかし、コロナのせいで句が詠めないのではなく、何とか工夫して詠むようにしたいものである。作句のスタイルをこの際変えていくことも必要ではないかと考えている。そして、今思うのはコロナウイルスの影響を受けない「いぶきネット句会」のありがたさである。そして、これからも皆様とともに俳句の道を歩んでいきたと考えている。

 



山仲間の旅          鈴木未草             2020年12月
 

 人にはあまり言えないが、この秋青森に旅行に行った。政府の許可もあり、酸ヶ湯温泉二泊の旅。直前まで迷ったが、年に一度の私たちの大事なイベントなのだ。私たちとは大学のワンダーフォーゲル部同年女子五人。初めての合宿でベソをかいた仲間だ。

 幹事は持ち回りで、随分前から計画を練る。実際今回も一年前に宿を予約した。コースは幹事にお任せだが、温泉は必ず入れることになっている。

 旅行では必ずハプニングが起きる。財布をトイレに置き忘れたり、部屋の鍵があかなくなったり。一番の思い出は屋久島だ。縄文杉も海中温泉も良かったのに、その後台風が居座ったのだ。ホテルに缶詰めでやっと船が出ると聞き夜明け前からフェリーの乗り場で並んだが満員。今度は空港へ走り尻尾に付く。残り一名の座席を譲ってくれた友達。結局全員乗れて無事帰ることができ嬉しかったこと。

 何事も終わってみればいい思い出になる。思い返して句作をするのも楽しみだ。先回の尾道では俳句ポストがあり、皆に勧められ投句したものが入選した。

 

  島々に届く鐘の音秋の風     未草

 

 山仲間だからではないが、人生それぞれ山あり谷ありだった。同じテントで寝て、同じ焦げ飯を食べ、同じ山道を歩いた仲間。気心もよく知っていて、いつもは笑いが絶えないが、大変な時はそっとして置いてくれ、ここはという時はそれとなく忠告してくれて有難いと思う。

 

  割り林檎皮ごとかじる山仲間   未草



いま気が付いたこと        三浦かどか        2020年11月                                              

 私は日本語学校の講師です。外国人に日本語を教えていると、思ってもみなかった色々な場面に遭遇します。

例えば、台風の後、校舎が雨漏りしたことがありました。「あまもり」「雨漏り」と職員は大あわてでした。しかし学生たちはなぜか気まずそうにしています。あとで聞くと「あまもり」はネパール語で「お母さんが死んだ」ということだと知ってびっくりしました。でもそれは違う言語だからまああり得ることとして納得いきます。しかし、日本人の私たちが普段なんとも思わず使っている表現に、外国人が戸惑ってしまうものがたくさんあることに驚きます。外国人に日本語を教えるには、文法より歌や標語などから入るのがよい、ということで、リズムも歌詞も易しいと思われる「三百六十五歩のマーチ」が選ばれることが多いようです。ところが、これが問題なのです。
「幸せは歩いて来ない」…これはわかります。でも「だから歩いて行くんだね」…
「幸せはどこへ歩い行くのですか?」
 また、短い易しい標語を教えるつもりで、「消したはず消えたはずでは燃えるはず」を出してしまうと、大変です。誰が何を何が?と、質問が出て教室中大騒ぎです。日本語独特の主語の省略は私たちが思っている以上に外国人にとって難しいようです。

 それに加えて日本語の「てあげる」も厄介です。「買ってあげる」は結局もらっていいの?「買って来てあげる」は?「貸してあげる」と言われたら返すんでしょ? 等々。

 最後に私自身の失敗談です。授業を少しでも面白くしようと安易に考えて、かっこいいことを言ってしまい、とんでもない誤解を招いてしまったことがあります。授業では自分たちの夢を話しあうことがあります。ある日学生たちから、「先生の夢は何ですか。」と聞かれ、私はこの時とばかりに自分の夢について話し出しました。「私は長い間日本語教師をしていますが、いつも授業が終わると、あれやこれやと反省することばかりです。なかなかその日の授業について満足することができません。ですから、いつか授業が終わって教室を出る時、『ああ、今日はいい授業ができたな』と満足出来たら、その日のうちに講師室に戻る階段から転がり落ちて死んでもいい。これが私の夢です。」そう話すと何人かの生徒が思わず、「危ない。先生、気をつけて!」と叫びました。そして驚いたことに次の日に学校へ行くと「三浦先生の夢は学校の階段から落ちて死ぬことだって」という噂でもちきりでした

 私は今、この文を書きながら考えています。外国人を教えることと、俳句を詠むことは通じるものがあるのではないかと。自分ではわかっているつもりで使っている表現が、相手にわかってもらえなかったり、誤解されたりするのは、説明が足りなかったり、省略の仕方がまずかったりするから、つまりは自分よがりで、相手のことを考えていないからなのではないか。

 これからは、自分の句を推敲するとき「季語はある?仮名遣いは大丈夫?」だけでなく、「これで皆にわかってもらえる句になったかな」と真剣に考えるようにしなければなりません。正直言って今まで、俳句に対してあまり積極的になれなかった私ですが、今回、思いがけなく「よもやま通信」を書かせていただいたおかげで、大事なことに気が付きました。有難うございます。



                                 
俳句弾圧不忘の碑          高橋佳代          2020年10月        

 

   戦争が廊下の奥にたつてゐた

               渡辺 白泉

 

 反戦の句として、あまりにも有名なこの句の作者は戦前の悪法である治安維持法の違反容疑で特高警察により検挙された。容疑となったのは掲句と「銃後といふ不思議な町を丘で見た」等の作句である。一九三三年プロレタリア作家小林多喜二に虐殺をもたらした治安維持法は一九四〇年から一九四三年にかけて新興俳句にも及んだ。四十四人が検挙され尋問や拷問を受け、十三人に懲役二年の刑が科せられた。

 

    戦争をやめろと叫べない叫びをあげている舞台だ

           栗林一石路

 

 この作者も二年の獄中に耐えた。戦後「新俳句人連盟」初代幹事長となった一石路は信州青木村出身だが、その青木村と山を隔てた現在の長野県上田市古安曽に『無言館』がある。いぶきネット句会の皆さまは既に訪れたことがおありかテレビ等でご存知だろうが、『戦没画学生慰霊美術館・無言館』は訪れた人々の心を打つとともに不戦の思いを強く抱くミュージアムとして広く知られている。無言館のある丘を下る同じ敷地内の林の中に『俳句弾圧不忘の碑』が立つ。八十年前、戦時下に弾圧された俳人たちを顕彰し、犠牲と苦難を忘れないことを誓うために、投獄された十三人を含む十七人の句が刻み込まれてある。呼びかけ人たちの奔走により多くの方々の浄財を集めて実現した碑だ。

 平成三十年二月二十五日建立の黒御影石に刻まれた文字は、金子兜太氏揮毛による。除幕式に出席を強く望まれていた氏の車椅子のための仮設スロープが木の匂いを放っていた。しかし、除幕式数日前、奇しくも多喜二忌と同じ二月二十日、金子兜太氏は黄泉へと旅立たれた。愛弟子であるマブソン青眼氏は記念碑建立呼びかけ人代表として師の意志を継ぎ「表現の自由を守る決意の表れ」としての記念碑の意義を式の挨拶で語られた。

 

   ナチの書のみ堆し独逸語かなしむ

                 古家 榧夫

 

   大戦起るこの日のために獄をたまわる

                 橋本 夢道

 

   徐々に徐々に月下の俘虜として進む

                 平畑 静塔

 

 不忘の碑に隣接し、同日開館の『檻の俳句館』には、碑に刻まれた俳人たちの句と似顔絵が監獄の鉄格子を模した柵越しに展示されている。『無言館』館主の窪島誠一郎氏は「彼らは表現することの死を強いられた。『檻の俳句館』には『無言館』と同じ意義がある」と言われた。

   降る雪に胸飾られて捕へらる

                 秋元不死男

 

   戦闘機ばらのある野に逆立ちぬ

                 仁智 栄坊

 

   英霊をかざりぺたんと座る寡婦

                 細谷 源二

 

 「忘れるな。戦争がどれだけ人間を人間でなくしてしまうか。戦争の始まりには必ず表現の自由の否定がある」と生前、金子兜太氏は『檻の俳句館』館主となるマブソン氏に伝えた。政治的な発言や政治的な匂いの俳句を嫌う傾向がみられる昨今の風潮を危惧しての言葉だった。

 

   暁の銃声しみじみと敵だ

                 波止 影夫

 

   墓標立ち戦場つかのまに移る

                 石橋辰之助

 

   往く人の母は埋もれぬ日の丸に

                 井上白文地

 

   出でて耕す囚人に鳥渡りけり

                 嶋田 青峰

 

   機関銃眉間ニ殺ス花ガ咲ク

                 西東 三鬼

 

    憲兵の怒気らんらんと廊は夏

                 新木 瑞夫

 

 彼らの遺した俳句を前にしてマブソン氏はこうつぶやかれた。「もしかすると、かつて弾圧された若き俳人たちは、私達よりも心が自由だったかもしれない。現代の私達こそ見えない檻の中で生きているのではないか」と。さらに、「上からの圧力よりも下からの圧力は、より恐ろしい」とも。コロナ禍の今、社会に「自粛警察」と呼ばれる人々が出現したことから考えると、忖度や自制の枷を表現の世界にまで及ばせているのは、権力者によるものではなく、私たち自身の内奥にあると言えるかもしれない。

 

   血も草も夕日に沈み兵黙す

                 三谷  昭

 

   秋は戦線の空にもあるか

                 中村 三山

 

   一兵士はしり戦場生まれたり

                 杉村聖林子

 

 『俳句弾圧不忘の碑』『檻の俳句館』の周辺は四季折々の自然美が素晴らしい。その中で、表現の自由について考えることは、私達の心を深めるのに役立つのではないか。是非俳人の方にはお勧めしたい。

 最後に、新興俳人の数少ない女性の句を記す。彼女には検挙の記録はない。夫を失い、一九四〇年一月の作品を最後に消息不明であるが、残された句には女性ならではのレジスタンス魂が見られ、胸に迫るものがある。

 

   戦死せり三十二枚の歯をそろへ

                 藤木 清子

 

 

  追 記 「檻の俳句館」 火曜日休館

 参考資料 日本レジスタンス俳句撰

            (マブソン青眼)


私と俳句                  鶴 翔          2020年9月

                                 
     天国はもう秋ですかお父さん      小学生 作者不詳 

 この句と私の出会いは七十の手習いのNHK俳句教室でのことであります。不幸にして父親を亡くした子供の亡き父に対する清らかな恋慕の情の句です。丁度今頃、夏休みも終わりの頃の句と思われます。

作者は小学生。名前はこの句を教えてくれたNHK俳句教室の先生もご存じありませんでした。先生は車のラジオで聞かれたそうであります。

俳句教室四・五ケ月経った頃、我々生徒が俳句用の語彙を知らない、ボキャブラリーが貧弱でとか俳句の出来ない理由を言い訳していると、先生はこの句を黒板に書きだしました。一瞬にして教室の空気が変わったのを覚えています。何かこの句にむつかしいボキャブラリーや語彙がありますか?

あれから六年、子どもの頃から「好きやすの飽きやす」と先生や友人からも言われ、八人兄弟の八番目、何をやるにも中途半端、三年と続いたものはありませんでしたが、俳句は現在もそれなりに続いております。

元勤務会社の九州支店天神町の最上階の会議室をOB風を吹かせ無料で借りた十二名のOB俳句会に参加しています。元会社の俳句部の元部長を頭にいただき、月に一度、三時集合、三句出し、二時間句会、五時から十時過ぎまで飲み屋での反省会。これが我々の句会ですが今は飲み屋の方は自粛気味であります。

今、自分も含め仲間の老化著しく何時まで続けられるかが課題であります。



般若寺(別名:コスモス寺)のご案内   野上千俊      2020年8月          

奈良には花の名所と云われる社寺が多くあります。白毫寺の椿と萩、春日大社の藤、長谷寺や当麻寺の牡丹、岡寺の石楠花、松尾寺や霊山寺の薔薇、矢田寺の紫陽花、元興寺極楽坊の桔梗、般若寺のコスモス等が良く知られています。社寺ではありませんが、吉野の桜、月ヶ瀬や賀名生の梅、藤原宮跡の菜の花やコスモス、明日香や葛城古道の彼岸花、平城宮跡の山茶花にも多くの観光客が訪れます。

今回案内させていただく般若寺(はんにゃじ)は奈良きたまちの北部にある真言律宗のお寺です。東大寺の転害門から北へ約一㎞の処にあります。寺の歴史は古く、飛鳥時代に開創され、天平七年(七三五年)聖武天皇が平城京の鬼門を守るため大般若経を塔の基壇に収め卒塔婆を建てられたのが寺名の起こりとされています。平安期には学問寺として千人の学僧を集め栄えていましたが、治承四年(一一八〇年)の平家による南都焼討にあ伽藍は焼失しました。鎌倉時代になり十三重石宝塔をはじめ七堂伽藍が再建され寺観は旧に復しました。その後室町後期の戦乱による衰退、江戸期の復興、明治の廃仏毀釈と栄枯盛衰を経ながらも、真言律の法灯をかかげ今日に至っています。

 廃仏毀釈により境内は現在の二千坪となりしたがそれ以前は三万六千坪の広さを誇っていたそうです。本堂には本尊の文殊菩薩騎獅像(重文)が安置されています。鎌倉期建立の楼門(国宝)、高さ十四メートルの十三重石宝塔(重文)や石造笠塔婆(重文)は貴重な建造物としてしばしばテレビや新聞に登場しています。

さて、この二千坪の境内には所狭しと花が咲きます。般若寺は別名コスモス寺と呼ばれるだけあって、夏咲コスモスは八種五万本、秋咲コスモスは二十種十五万本植えられています。寺作成の花ごよみには次のように記載されています。

  水仙(十二月~二月)

  山吹(四月)

  紫陽花(六月)

  夏咲コスモス(六月)

  秋咲コスモス(九月~十月)

 しかし花はこれだけではなく、梅、椿、桜、シャガ、牡丹、睡蓮、花菱草、鉄線花、百日紅、彼岸花、山茶花、蠟梅等と実に盛りだくさんで、一年中何かの花に出会える寺としても知られています。

 また、庭にはたくさんの石仏が立ち並んでおり、この石仏を愉しませるかのように色々な花が咲くのです。

この般若寺の境内には次のような句碑が建っています。

   般若寺に返り咲く八重山吹や  多津良

  秋の日の十三塔や日は西に    素十

  ちちろ虫十三塔をつつみ鳴く   一邑

  唐びとが月をろがみし笠塔婆  秋桜子

  双び立つ花野の寺の笠塔婆   日月子

  般若寺の釣鐘細し秋の風     子規

  外向に立たせる諸仏鵙高音    玉骨

  般若櫃うつろの秋のふかさかな  青

  大塔宮在せし寺や百日紅     小牛

  般若寺やほとけの庭に秋ざくら  明奎

  散りたまる花や般若の紙の向き  去来

 

六月に寺を訪ね夏咲のコスモスを写真に撮りましたが、秋咲コスモスの時期にこの寺を訪ねるのがお勧めです。秋咲コスモスが庭狭しとばかりに咲き誇る姿は何度見ても圧倒されます。奈良公園・東大寺に来られる折には少し足を伸ばし般若寺に立ち寄ってみてください。この般若寺を詠んだ拙句で案内を終えさせていただきます。

   コスモスの波に揉まるる石地蔵  千俊

  般若寺の花に紛るや猫の恋    千俊

 尚、般若寺へ直接行かれる場合はJR・近鉄とも奈良駅より青山住宅行バスに乗り、般若寺停留所で下車し徒歩三分です。拝観料は大人五百円で、車の方には無料の広い駐車場が用意されています。


 

ステイホーム         長谷川妙好       2020年7月
       
 

 皆さんはコロナによるステイホーム中、どのように過ごされたでしょうか。時々出かける旅行にも行けず、習字教室もコーラスも休講、友達との平家物語の勉強会と称するおしゃべり会も中止。伊吹嶺句会もお休みでした。その間今まで家では見ることの少なかった映画をアマゾンプライムビデオで見ることになりました。古いけれどすばらしい何本かの日本映画に巡りあえました。

 まずは『怪談』。岸惠子さんが日経新聞『私の履歴書』で書いておられたので興味を持ちました。小泉八雲原作の中から選ばれた四編のオムニバス作品。起承転結の「転」に当たる部分の第三話『耳なし芳一の話』が圧巻でした。中村嘉津雄さんの芳一がよかった。能舞台を見ているような様式美がすばらしく第十八回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞したとのこと。納得でした。

 次は『黒部の太陽』。一昨年黒部を旅したこともあり、小樽の裕次郎記念館には大きなスチール写真があって、映画の存在は知っていましたが、不思議と今まで見る機会がありませんでした。画面には石原裕次郎、三船敏郎、宇野重吉など、今は亡き懐かしい顔ぶれがありました。しかも迫力満点の感動作でした。1968年公開ですが全く古さを感じません。黒部の風景を思い出しながら楽しみました。それに出演者の名前が五十音順で表示されていたことに驚きました。娘は映像関係の仕事をしています。エンドロールに出す出演者の名前の順番で、「なんでうちの○○はあの人の後なのよ」みたいなクレームが所属事務所から入ることがあって、「調整が大変」と言っていました。あれだけの有名人が多く出ている映画の順番を現在のやり方で決めるのは無理だろうなと思った次第です。
50音順は、「全員の力で作り上げた作品なのだ」という心意気の証とも受け取れました。

 最後は『武士の献立』。前二作と違って比較的新しく、2013年の作品です。その数年前に映画館で見た『武士の家計簿』より楽しめました。上戸彩さんが凜とした姉さん女房役で、本当に素敵でした。

 ステイホーム中でもなければ多分巡り会うことのなかったであろう映画の話です。


キジバトの観察          伊藤範子       2020年6月         

 我が家にキジバトが営巣したのは三度。一度目はウバメガシの中だった。しかし営巣に気付いた夫がキジバトの留守中巣を取り払ってしまい、卵も落ちていたのを見てがっかりした。翌年、二度目は枝葉が伸びていたイスノキに営巣した。この時は、二個の卵のうち一個、無事ヒナが孵り、親鳥が留守の間に写真やヒナの動画も撮り、巣立ちをこの目で確かめることもできた。

 イスノキを刈り込んでから今年まで、その後キジバトが巣を作ることは無かった。去年、近所のお屋敷の人が庭を売却して新築の家が十一軒建った。営巣に困ったからだろうか、今年四月十九日、リビングの前のカラタネオガタマの木の中にパタパタと簡素な巣を作った。卵は二個。コロナによる自粛生活の最中でもあり、毎日キジバトを観察するのが楽しみになった。

抱卵の交代時間が同じだったことにも驚いた。朝は遠くで相方が鳴くと、七時頃夜の当番が巣を離れて飛んでいった。その後交代要員が、オガタマの隣のシラカシの枝に止まり、周りを注意深く見てから七時半にサッと巣へ入っていく。午後は四時に交代。ネットで検索すると、昼はオス、夜はメスが抱卵すると分かった。メスの方が抱卵の時間が長くて疲れるだろうに、と思ったものだが、夫が「それは夜の方が安全で、メスが昼間自由に餌を食べ、栄養を取れるようにとのオスの配慮ではないか」と言った。なるほど、レディーファーストを実践しているのかなと思った。「キジバトは夫婦で仲良く子育てをするので、家にキジバトの巣があると、夫婦円満や家内安全など幸運を招く」とネットで見たことにもちょっと嬉しい気持ちになっていた。

毎日、「今交代した」「羽の模様でどちら向きに坐っているか分かる」「今東向きに坐っている」などと、普段はお互い喋ることもあまり無いのに夫婦の会話が増えてきた。

孵化まであと一日か二日という五月三日。「早朝カラスが一羽襲いかかり、一対一で抵抗していた」と聞いたので急いで覗くと卵はあったものの、当番が居なくなっていた。戻って来たので安心したが、その日はカラスが心配で、一日窓際でマスクを作りながら、何度も庭に出てみた。昼、カラスが今度は二羽で襲いに来た。「コラ!」と追い払ったが、当番は逃げ、卵は一個掠め取られていた。一対二では勝ち目は無かった。カラスも仲間を連れて来るなんて、やっぱり頭が良いのかとも思った。

空白の時間があったものの、ちゃんと戻ってきて、午後六時頃、またカラスが二羽で襲いにかかった。気配にすぐさま表へ出たので追い払えた。暗くなった頃そっと見に行くと、残りの一個を守っている。「あぁ良かった。鳥目で夜は敵が来ないから、ゆっくりおやすみ」と心の中で呟いていた。

翌朝「キジバトがいない」と夫が言う。驚いて見に行くと、卵も無く空っぽの巣を残して去っていた。残念!夜明けとともに攻撃されたのだろう。カラスも生きるためなのだ、自然の摂理なのだと思うほかなかった。その後、デーデーポッポーが聞こえると、思わず外に飛び出し、何処にいるのか探している私がいた。二、三日経ったある日、鳴き声に外へ出ると、二羽のキジバトが寄り添うように電線に止まっていた。キーちゃんとポーちゃんだった私はしばしの間、空を見上げていた。

  身じろぎもせず抱卵の鳩坐る   範子  



横井也有             野崎雅子       2020年5月                  

 毎年3月に、愛知芸術協会主催の「尾張名古屋のおもしろ文化史」と称して、徳川美術館学芸員、名古屋市博物館学芸員等識者の先生の講演会が、名古屋市中区栄の長円寺会館ホールで行われる。

今年も、元名古屋市博物館学芸員の山本祐子先生の「横井也有と『鶉衣』」を、早々に申し込み楽しみにしていた。

ところが、1月末頃から新型コロナウイルス禍で、様々な教室が閉鎖されているのでどうなるか心配していた。二回の講座のうち第一回の3月9日は、会場の係の方々の細心の配慮で無事行うことができた。

横井也有は、1702年尾張国名古屋で出生。上級の尾張藩士用人寺社奉行八代宗勝、九代宗睦の文化的ブレーン。53歳で、病気の為依願隠居し、俳諧と琵琶を楽しんだ。*

特に芭蕉を崇拝していて、

  よし野にて桜見せふぞ檜の笠      芭蕉 

   香は今もさくら見せたるひの木笠   也有 

    ふるさとやへその緒になく年の暮  芭蕉   

    友とせむ臍もの言はば秋の暮     也有  

    と、詠んでいる。

山本先生が、「也有は博学で、それでいて気さくな人柄で、何か困った事があった時、也有に相談してみたらと思いますね。」と、言われたのが印象に残った。

名古屋市植物園に「也有園」がある。何度か行っているが、講演を聞いて改めて行ってみたくなった。四月十日から休園すると聞き、急ぎ四月九日に出掛けた。

新緑の中、桜の花が舞い、ミツバツツジ、山吹、しゃがの花等咲いていて、也有の句が添えられていた。

新型コロナウイルスが一日も早く終息して、講演を聞いたり、植物園の散策を楽しめる日が来るのを切に望む。  

 

過ぎたるものは          浜野 秋麦     2020年4月   

 例年であれば、Jリーグは序盤戦、野球中継も始まっている頃です。スポーツ中継のなくなったテレビ局はさぞ番組編成に苦労をしていることでしょう。そんな中で、某国営放送の大河ドラマは出だしこそ躓きましたが、順調に進んでいるようです。「麒麟が来る(明智光秀)」ということで戦国時代ものでは必ず舞台になる長浜・彦根を素通りして、岐阜や大津がメインになるようです。

同じ戦国期の敗軍の将として、長浜・彦根にかかわりの深い人物を挙げるならば、まずは「石田三成」の名が浮かびます。三成を語るときに必ず引用されるのが、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり島の左近に佐和山の城」という落首(狂歌?)です。嶋左近(清興)は筒井順慶の重臣であった名将で、三成が知行の半分を差し出して召し抱えたとされています。関ヶ原合戦での勇猛な闘いぶりが、多く伝承されていますから、文治派である三成の弱点を補うのに最適な人材であったと言えるかも知れません。

さて、もう一つの「佐和山の城」です。彦根城の東ほぼ一キロにある佐和山全体に幾多の曲輪、防塁を設けた大きな山城であったようです。数年前に、自治会で「町ウオーキング」を企画して登ったことが有りますが、なかなかに難攻不落な行程でした。

彦根駅からですと暫く米原方面に進んだのち東側に線路を越え、佐和山の西の麓、龍潭寺の境内から山に入ります。鬱蒼とした林の中の急坂を登って切通しに出ます。ここから南方向に、両側が切岸のように急峻な尾根筋を通って西の丸跡、本丸跡と進みます。本丸跡はそこそこの広さ(三十×八十メートルほど)の空地になっています。本丸の下には隅石垣と千貫井戸が残されており、落城の時に奥女中が身を投げたとされる女郎谷も見渡せます。道が整備されているのは、大体この辺りまで、大方は林と藪で猿の群れに行き会うこともありました。

関ケ原の戦のあと佐和山城は井伊直政に与えられますが、井伊家では、金亀山(彦根山)に新たな城を構えることとなり、ある限りの資材を移送しています。一説には、徳川家康に対抗した敵の総帥の城として、徹底的に破却されたとも伝えられ、石垣でさえ隅石垣が僅かに残るのみです。

現在の登り口は、龍潭寺にあり、城の搦め手だったのではないかと考えられています。この辺りには、井伊神社、龍潭寺、清凉寺と並んでおり、天守の真西の辺りには三成屋敷跡という場所もあります。(井伊家の菩提寺となっている清凉寺は嶋左近の屋敷跡と伝えられています)。こちら側からは、松原内湖を介して琵琶湖に通じていました。

これに対して、大手筋は東側、東山道に向かっており、城下町が開かれ、侍屋敷も軒を連ねていたと考えらますが、調査はされておらず、範囲や規模も分かっていません。

本丸は五層の天守閣であったと伝えられていますが、内部は質素な造りで中世の山城の域を出なかったようです。あるいは、大手筋方面に立派な御殿が構えられていた可能性も無いとは言えませんが、城全体の規模と云い施設と云い、十九万石余の大名にとって「過ぎたるもの」と言えるようなものでは無かったように思えます。

残されるのは、佐和山の地政学的な価値です。眼下に東山道を望み、湖上の交通も一望できます。京都と中部・北陸を結ぶ要衝といえます。政権の最重要ポイントとも言える難攻不落の城を、切れ者とはいえ武将ならざる経済官僚に与えるのは過ぎた処遇ではないか、という世評を感じ取っての落首だったのではないでしょうか。

三成に関する連歌でもないかと、調べてみたのですが、見つかったのは辞世の句のみでした。

  筑摩江や芦間に灯すかがり火と

     ともに消えゆく我が身なりけり

 筑摩江は鍋冠祭りの筑摩神社の辺りの入り江で、戦前までは入江内湖が広がっていました。

 



「松根東洋城」大隆寺に眠る   宇都宮えみ     2020年3月 

 宇和島藩主伊達家の菩提寺である、大隆寺を散策したとき、東洋城の句碑を目にしてはじめて、私は、俳人松根東洋城を知りました。

東洋城は、明治十一年二月二十五日東京築地で生れ、父は、伊達藩城代家老松根図書の長男、松根権六、母は、宇和島藩主伊達宗城の次女、敏子です。

裁判官であった父の赴任先である、松山中学五年生の四月、英語の教師として漱石が来任します。そして、漱石が熊本五校の教師となってからも、句を送り、添削の指導を受けていました。

第一高等学校に入学後は、根岸の子規庵へ通い始め、ホトトギス例会や碧梧桐庵会への出席も欠かしませんでした。

東京帝国大学へ入学してからは、漱石庵に通い、一高の俳句会を指導していましたが、腸チフスを病み、休学したのち、京都帝大に復学しています。

明治三十九年宮内省に入り、それより式武官、区内書記官、帝室会計審査官を歴任しました。

子規歿後の俳壇は、定型と非定型とに二分されその非定型の碧梧桐の「俳三昧」に対抗し、虚子と「俳諧散心」を興します。

定型を代表するものは「ホトトギス」と「国民俳壇」で、虚子はこの二つを掌握していましたが、小説に専念することになり、虚子より「国民俳壇」の選を引き継ぎました。

大正四年二月、芭蕉を宗とする俳諧を道として、芭蕉の求め続けた道「芭蕉直結」を旗印として、東洋城は「渋柿」を創刊します。

天皇のご沙汰により俳句を三句奉答し、俳句とは何かとのご下問に「渋柿のごときものにては候へど」と答え、その感慨から俳誌を「渋柿」としたことはよく知られています。

表紙の渋柿の文字は、一・二号が活字、第三号からは、夏目漱石の題簽となり、大正、昭和、平成、令和と創刊以来一号も欠けることなく、一世紀を迎え、受け継がれていることには、驚かされます。

東洋城は、桐生、岩手、東京、松山、宇和島など各地で「俳句道場」を催し、俳句の指導にあたりました。門下生の話として、「俳句道場」を開始する前に座禅を組み精神統一を図った、句会中は膝を崩すことを許されなかった、弟子を叱る声は別棟まで聞こえたなど、俳句の上では厳しい指導をしましたが、こと俳句を離れると人間味溢れる師であったようです。

俳壇引退後は芸術院会員に任命され、昭和三十九年八十六才で、孤高の人生を静かに終えています。

大隆寺を訪れたのは松の内も過ぎたばかりでしたが、墓前には一本の南天が揺れていて、その艶やかな赤い実を見ていると、碑の「黛を濃うせよ草は芳しき」の句が、鮮やかに浮かんできました。


京都の紅葉を訪ねて     森田もきち    2020年1月

 

 座卓より望む紅葉や瑠璃光院

 京都の紅葉の穴場を探す眼が、瑠璃光院の名で止まりました。                      山と渓谷が織りなす風光明媚な八瀬の地にひっそりと佇む瑠璃光院は、知られざる隠れた名刹でしたが、歴史的建物・文化財保護の為、春の新緑の時季・秋の紅葉の時季と季節限定で一般公開されるようになり、多くの参詣者を集めているとの事。一万二千坪の広大な寺域に建つ格調高い数寄屋造りの書院は、京数寄屋造りの名人と称された中村外二、自然を借景とした庭園は、佐野藤右衛門一統の作と伝えられます。典雅な中にも匠の技が光る書院の二階から座卓越しに「瑠璃の庭」を望むと、今を盛りの紅葉が額絵のようであり、畳二畳ほどの磨き抜かれた黒檀の座卓に、色を深めた紅葉が照り映え、漆黒に浮かんだ深紅の紅葉の映像に心を奪われました。

 黒檀の座卓に映る紅葉かな


 大原三千院の近く、声明による念仏修行の道場として創建され、紅葉の穴場と探した勝林院(魚山大原寺)住職の坊としての宝泉院、 僧坊としての実光院を拝観後、時間が余ったので四年ぶりに三千院にも寄りました。

 前回は桜の時季でしたが今回は心残りないほど全山紅葉に包まれ、紅葉の降り来る中おさな六地蔵の微笑ましい幼顔に心も和むのでした。

降り注ぐ紅葉明かりや稚児地蔵

 


 


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