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2018年6月号 (俳日和 五)
 

 
  俳句の研究

                              河原地英武

 初心のころは気楽な気持ちでインターネットに投句していた。俳句は気分転換のようなもので、趣味はと問われたら躊躇なく「俳句です」と答えられたものだ。しかし年数を重ね、同人になり、人に俳句を指導する立場になったころから、意識が変わってきた。趣味を料理にたとえれば、デザートのようなもの。だが、わたしにとっての俳句はメイン料理の一つになってきたのである。それは趣味よりももっと大きな何かだ。人生の事業、では大袈裟すぎるなら、ライフワークといっておこうか。実際、いつも俳句のことを考えている。俳句とは何か。諸説を読み、つきつめて考えようとするのだが、逃げ水のようにその正体がつかめない。それでも何とか自分なりの俳句観を確立したいと願っている。

 学生時代に外国語を専攻したこともあって、俳句の国際化に関心があり、いままで何本か論文を書いてきた。この方面は今後も掘り下げてゆくつもりだ。主宰として伊吹嶺を預かる立場になってからは、師系に対する意識を強めている。伊吹嶺がめざす即物具象の俳句は、俳句表現史のなかでどのように位置付けられるのか。われわれの即物具象は子規が唱えた写生とどう重なり、どう異なるのか。これは単なる技法の問題ではなく、俳句の根幹にかかわるテーマではなかろうか。

 二年前、『平成秀句』(邑書林)という小著をまとめたとき、その原稿のすべてに目を通してくださった島田牙城社長が、わたしの文章に頻出する「写生」に疑問を投げかけた。実は俳句における写生については、まだ誰もきちんとした定義付けを行っていないのだそうだ。そのあいまいな言葉を不用意に用いるべきでないとのご指摘であった。このことがずっとわたしの心に残っている。まずは従来の写生論を整理し、即物具象との関係を探ってみたい。こんなところから自分の研究を推し進めようと考えている。