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過去の伊吹嶺山房雑記(2008年1月号より)


2017年4月号 (226)
 

  かたかごの花                      栗田 やすし

  
 「かたかごの花」と「青空」という二つの言葉を使って俳句を作るとしたらどんな情景を浮かべ、どんな俳句を作るだろうか。
 かたかごの花は、「五月、葉の間から花芽を出し、葉の先端に茎四~五センチの紅紫色の花を一つ、下向きにつける。花びらは六枚で反り返る。清楚、可憐という言葉が相応しい花」と歳時記にある。
 そこで、
  青空の下かたかごの花咲けり
というのはどうだろうか。確かに俳句の基本の十七音定型であるが、これでは、単に事実をナマに報告しているだけで私たちの目指す即物具象の写生俳句とは言えない。
 青空の下で咲くかたかごの花を見て、ただ咲いているという事実を報告するだけでは駄目で、詩因―感動―あっての写生でなければならない。どのような感動をしたか、言葉を替えて言えば、どんな発見をしたかが大切なのである。
 感動のないところに詩は生まれない。
 では、かたかごの花の可憐さに感動したら、その感動をものを通してどのように言葉で表すかが問題であろう。
  かたかごの花のさゞなみ青空へ    欣一
 清楚で可憐なかたかごの花を「花のさざなみ」ととらえた作者。それは群れ咲くかたかごの花の量感を即物的に把握したものであって、新鮮で美しい。そのさざなみの行方にある青空はかたかごの花の開く頃がことに美しい。これこそ対象への凝視によって生まれた新鮮な感動による即物具象の写生句である。
 

  思 郷                      栗田 やすし

  千仞の嶽 金華山
  百里の水 長良川
  華陽の健児 ここに生まれて
  国家のために 明け暮れ学ぶ

  母校岐阜高校の校歌である。入学すると一年生は昼休みに長良川の土手に集められて先輩から毎日厳しく校歌と応援歌を教わった。当時、野球部は強く、一年先輩の森捕手(巨人に入団)と同級生の木下投手(慶応に進学)がバッテリーを組んで春の選抜に出場しており、応援歌の練習にも熱がこもっていた。
 私の家から学校までは長良川堤を上流へ向かって歩いて三十分ほどで、私ははるか後方に聳える伊吹山を背にし、前方に金華山を見て通学したが、卒業試験の初日に大雪となり、雪をかきわけてやっとの思いで学校に辿り着くと、「本日の試験は延期」との貼り紙に、がっかりすると同時にほっとしたことも懐かしい思い出である。
 当時の長良川の水は水道水のように透明で、川底の石が白く透けて見え、長良橋の上から鮎の群れを手にとるように見ることができた。
 伊吹山や金華山へは何度も登ったが、中学校の行事で伊吹山頂のご来光を目指して、夜中に懐中電灯の明かりを頼りに麓から登ったことも懐かしい。
 岐大生二年の春、剣道に熱中していた私が、同学年の櫻井青雪(幹郎)、丹羽新風子(康碩)・清水弓月(弥一)君らを中心とする二十歳句会に誘われて、金華山麓の山寺(白華庵)での句会に出たのがそもそも俳句との出逢いであった。
  ふるさとの山河思へば鳥渡る    やすし
  


2017年2月号 (224)
 

  新春雑感                      栗田 やすし

 昨年は色んな事がありましたが、明るい出来事としてオリンピックでの日本選手の活躍に湧いたこともその一つでした。
 私は、毎年のように新年大会で会員一人ひとりがそれぞれの目標を定めて、その目標に向かって努力してほしいと言ってきましたが、昨年一年を振り返って皆さんは自己採点すれば何点になるのでしょうか。
 目標を見事達成された人はさらに新しい目標に向かって努力されることを期待するとともに、残念ながら達成できなかった人には、その原因は様々でしょうが、その出来なかった理由を引きずらないで、新しい年を迎えて、どうしたら目標を達成できるかを考えて、前向きに努力していただきいと思います。
 私はこれまで十年先を見据えてと自分に言い聞かせてきましたが、喜寿を迎えたとき、急に気が弱くなって十年先ではなく、取り敢えず五年先、それに加えて五年と考えましたが、今年傘寿を迎えることとなって、九十歳まで頑張ると公言している以上、残された十年を最後の十年として、頑張ろうと気を取り直すことにしました。
 万葉学者の高木市之助先生から戴いた年賀状の「いちのすけ憲章」に
  第一条 学問とは真実を求め、調べ、考え、そして表出することである。
  第二条 学問する人間に余生はない。
  第三条 ああ、山林に自由存す。
とあるのを心に、気力を奮い立たせたいと思うこと頻りです。
 


2017年1月号 (223)
 

  歳晩雑感                          栗田 やすし

 平成二十八年も残り少なくなりました。「伊吹嶺」の二月号の編集作業を終え、四月号の企画をたて、原稿依頼を済ませると、うっかり正月はすでに過ぎてしまったと錯覚してしまいそうです。
 二十九年は伊吹嶺創刊十九年目ということになります。満二十周年は来年の一月号でということですが、秋には二十周年記念の俳句大会と祝賀会が予定されています。
 二十周年と言えば私が「風」に入会した昭和四十一年は「風」の創刊二十周年の年でした。その年の秋には沢木先生の塩田句碑が能登の曽々木に立てられました。この除幕式に入会してまだ半年もたたないのに、「風」にすでに入会していた丹羽康碩さんと思い切って参加したのもよい思い出となっています。
 沢木欣一先生は「風」の二十周年記念号で「『風』の二十年」と題されて「十年一昔と言いますが二昔を過ぎ、白面客気の青年であった私も今では頭に白いものをいただくようになりました。」「『風』の二十年間は実に永かったと思いたいのに、実感は瞬間に過ぎ去った感じ」だと書いておられますが、私も同感です。私の場合、「風」の愛知県支部を立ち上げて三十年目での「伊吹嶺」創刊と言うこともあって、「伊吹嶺」の二十年があっと言う間に過ぎ去ったというのが実感です。
 今、「伊吹嶺」の創刊号を繙くと、総頁三十八頁で、同人十六名、雑詠欄投句者二百一名です。創刊時に同人・会員併せて二百十七名と多かったのは、「風」愛知支部の会員の皆さんがこぞって参加したためでした。
 いずれにしても今日の「伊吹嶺」があるのは、亡き沢木・細見両先生をはじめ多くの先輩のご支援と、仲間の努力の賜物と感謝の気持ちで一杯です。



2016年12月号 (222)
 

  夏休み                          栗田 やすし

 夏休みにはクラスの生徒と山野を歩き、海の好きな生徒とは海水浴を楽しみ、同僚とは、夏は槍・穂高をめざし、冬は、信州のゲレンデで大いに青春を謳歌したものである。新卒教師としての中学校勤務の三年間の思い出である。
 当時はまだ宿直があり、私が宿直の日だと知った生徒が帰宅してからまた学校に来て楽しそうにお喋りして帰って行ったものである。
 この子たちは団塊の世代で、一学年十四クラスというマンモス中学校で、運動場にプレハブ校舎が幾つも建っていた。一クラス六十人というすし詰め教室であった。当時はまだワープロも複写機もなく試験問題はガリ版刷り、高校への内申書はカーボン紙を使って書いていた。公立と私学の内申書を書くことは手間のかかることであったが、忙しいという思いはなく、学校の仕事を下宿に持ち帰ることはしなかった。放課後は剣道具を着けて生徒たちとクラブ活動を楽しんでいた。
 俳人協会では毎年夏に小・中・高の先生を対象に俳句指導講座を開いている。
 私も昨年は都内の中・高の、今年は小学校の先生を対象の講座を担当したが、毎年、講座に参加する先生が定員に満たないのである。先生方が出席しない理由は、私たちの頃と大きく事情が変わって夏休みと言えども毎日出勤し、俳句の講習などでは研修を許可しない校長さんが多いのだそうだ。
 今の小・中学校の先生方は毎日夜遅くまで学校にいるのが当たり前という。何がそんなに忙しいのだろう。書類作りや会議に振り回されているのであればお気の毒なことである。
 もっと教員を信頼して先生方に自由な研修時間を充分与えるべきではなかろうか。





2016年11月号 (221)
 

  柿                          栗田 やすし

 柿と言えば先ず心に浮かぶのは子規の句、
  柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
であろう。この句には「法隆寺の茶店に憩ひて」と前書きがあるが、子規は東大寺脇の宿で奈良名産の大好物の御所柿を食べながら夕方の鐘に聞き惚れて詠んだものである。
 
 ところで、綾子先生に
  故郷の柿どれも烏のつゝきし痕
と詠まれた句がある。柿は綾子先生の一番お好きな果物であった。
 綾子先生が結婚されるとき、丹波の柿をトランクに詰めて金沢の欣一先生の許に来られたという話はよく知られている。
 綾子先生がお亡くなりになったのは平成九年九月六日であるが、欣一先生の句集『綾子の手』に
  笑顔良し生家の柿を供へたる
  柿食つて童女の笑みのいつまでも
の句が収められている。「生家の柿」は言うまでもなく丹波の綾子先生の生家の柿である。
 欣一先生は『綾子の手』(平成12・8)の「あとがき」で、「この句集は綾子追悼のものとなった。毎朝、遺影に水を供えているが、まだ故人となった実感が湧かない」と書かれている。
 「笑顔良し」「笑みいつまでも」に欣一先生の綾子先生への思いのすべてがこめられていると言えよう。
 




2016年10月号 (220)

  一筋の道                      栗田 やすし

  
 私は自註句集で
  振り向けば一筋の道寒明忌
の句を自註して、「今年もまた碧梧桐忌を迎えた。これまで幾つも職場を変えてきたが、結局、碧梧桐に魅せられての五十余年であった。」と書いた。
  
 碧梧桐との出会いは、大げさに言えば小学生の頃である。村の床屋の壁に、塩谷鵜平氏の短冊が掛けてあった。鵜平は碧梧桐の高弟で、その短冊は碧梧桐の六朝風の書体を真似たものであり、少年ながら強く印象に残っていたのである。
 
 人は生きていく過程で、進学・就職・結婚などあらゆる機会に選択を迫られて幾つかの選択肢の中から一つを選んで来た。あの迷走台風であっても振り返れば一筋の道である。
 
 分かり切ったことではあるが、紆余曲折はあっても省みれば誰もが歩いて来た道は一筋である。
 その一筋の道を日記に記してきた人もいるであろうが、私たちは俳句に関わって来たことで俳句作品によってそれを跡づけてきた。これらの俳句は多くの仲間に支えられて出来たものである。
 
 俳句は一句だけではよく分からないが、句集に纏めることによって、作者の人となりがおのずと明らかになる。このことは、これまで刊行された四十八冊の『伊吹嶺叢書』によって誰もが認めるところであろう。
 
 このたび、『伊吹嶺自註俳句シリーズ』をスタートさせた。自らが歩んで来た一筋の道を省みる良い機会となる。纏められた一冊は、家族は無論のこと、共に歩んで来た仲間にとってもかけがえのない一書となるに違いない。
 



2016年9月号 (219)

   
     筋トレ                         栗田 やすし

 

 

 夏は朝五時に起きて庭に出て鉢の花に水をやるのを日課としている。鉢物で今咲いているのは金魚草・百合・日々草・ミニ薔薇・桔梗・千日草・グラジオラスといったところ。地物では夏菊・コスモス・浜木綿。それに日除けの棚の朝顔・夕顔とゴーヤ。これらに水を撒くのにおよそ三十分はかかる。
 温暖化のせいか、今年の春に牡丹と浜木綿が同時に咲いて驚いたが、その後再び牡丹が咲き、今、浜木綿が咲いている。異常と言うほかない。
 郵便受けより朝刊を取り出して、眺めながら家に入る。「トランプ氏結束を訴え」「大橋巨泉さん死去」の見出しが目に飛び込んでくる。
 朝の涼しいうちに「同人作品」の選に取りかかる。
 選句を中断して七時半に朝食。朝食後、珈琲を沸かすのが私の日課。今日の名古屋の気温32度まで上がるという。すでに庭の欅では蝉の大合唱が始まった。ご近所迷惑になっているのではとホースの水を威勢良く飛ばすと、一旦は逃げるが直ぐもどってきて以前よりも威勢良く鳴く。忌々しい。
 朝食後、昨夜整理した牧野さんの句集稿(「三光鳥」)を豊文社出版社へ送るためポストまで歩く。往復二十五分。
 十時、「中日俳壇」の投句葉書が速達で届く。同人選を中断して、こちらの選と選評を優先することとする。
 午後は、二時より近くのトレーニングセンターへ。頭の衰えは如何ともならず、せめてもの思いで筋トレというわけ。仲間に卒寿まで頑張ると公言した手前せめて足腰だけでも鍛えておこうと思っている。卒寿までにはまだ十年もあるが、わたしの口癖の「十年先を見据えて」もこれが最後と言うことになる。



2016年8月号 (218)

   
     終 活                         栗田 やすし

 

 

この六月十三日で満七十九歳の誕生日を迎えたが、どうも実感が湧かない。うっかり六十九歳になりましたと二度も言ってしまった。そのことがすでに歳相応の惚けというのかも知れないのだが。
 
 私は中学三年の春に盲腸の手術をしたぐらいで成人するまで病気らしい病気はしなかったが、一度だけ危うく命を落としそうになったことがあった。
 
 それは、私がまだ小学校に入って間もない頃と記憶するが、兄と従兄とが夜の長良川で鮎漁をするのについて行ったときのことである。私は川舟の舷に手をかけて暗い川面を覗き込んでいたが、ぐらりと舟が傾いた拍子に身体が浮いて頭から川に突っ込みそうになったのである。その時、とっさに兄と従兄が私の履いているゴム長靴を掴んで私を引き揚げてくれた。もしそのとき長靴がすっぽりと脱げていたら私は真っ暗闇の流れに呑み込まれていたであろう。その話をすると兄もあのときは必死の思いでゴム長を掴んでいたという。
 
 人は運良く命拾いをしたとしても何時かは必ず死ぬ。
 
 近年「終活」という言葉をよく聞く。死への準備をせよということらしい。そう言われてもいつ死ぬかも分からないのに本気で終活をやろうという気にならない。が、これまで多くの人に散々お世話になり、ご迷惑をかけておきながら何もしないでこの世を去るのは申し訳ない。と言ってさて何から始めようかと考えるともう少し先でもよいのではないかと考えてしまう。が、何事も潮時というものがある。やはり終活を真面目に考えることにしよう。



2016年7月号 (217)

   
    碧梧桐の新居案内状                   栗田 やすし

 

 

  碧梧桐の新居を知らせる葉書を入手したのでその全文紹介する。ハガキは黄色の和紙にペンでびっしりと書いて印刷したもの。(私製葉書で未使用)
 ハガキの内容は
   粛啓 今年も愈々押詰まつた諸彦、いづれもご壮健のことゝ存ず
   頃日或る奇縁とでもいふのであらう急に話がきまって老来初めて左記に一戸を構へる事になつた 
   もう十四五年も経つ古家ではあるが相當な建築で住心地も宜しい それに電話もとりつけられた
   言ふまでもなく先輩盟友の身に餘る温情と厚意の賜物で今更ながら其友誼の濃さに感涙している
   ぐ北裏 高田馬場より徒歩約七分 新宿小瀧橋間バスにより小瀧橋より徒歩約三分
   乍末筆 尚今後倍舊の御風交を祈る
                        東京淀橋区戸塚四丁目五九〇番地
                             河 東 碧 梧 桐
      昭和十一年十二月  日                 電話牛込 二二一一番

  
といったもので極めて丁寧な新居案内状である。碧梧桐がこの新居に移転したのは十一月二十一日であったがその喜びも束の間で、翌十二年の二月一日に腸チフスに敗血症を併発して午後十一時十一分に永眠したのである。





2016年6月号 (216)

   
    伊吹嶺俳句集                      栗田 やすし

 

 

 「伊吹嶺」は平成十年一月に創刊し、再来年の一月に二十周年を迎えることになる。その記念事業の一つとして 『伊吹嶺俳句集 第二集』の刊行を企画し、小長哲郎氏を編集代表とする合同句集編集委員会を立ち上げた。
 平成十九年十月に伊吹嶺創刊十周年を記念して刊行された『伊吹嶺俳句集』は清水弓月氏を委員長とする編集委員の皆さんの力で刊行された。ここには三百九十三名の仲間が出句し,四百十四頁の大冊子であった。表紙の三島池から望む伊吹山が美しかったのもなつかしい。
 私は序の中で、
   この十年間、私たちが俳句とどう関わってきたのかを合同句集『伊吹嶺俳句集』は正直に  語りかけてくれるでしょう。
  「伊吹嶺」は「風」の理念を基本に据えて即物具象の俳句を目指してきた。この基本理念は  これからも変わることは無い。会員一人一人の一層の精進を期待したい。

と書いた。あれから九年を経て、伊吹嶺の仲間の輪は五百名を越えるまでに広がった。これも偏に伊吹嶺を愛し、仲間とともに切磋琢磨してきた結果である。
 第二集の例句はすべての会員が『伊吹嶺俳句集(第一集)』以降に作成し、伊吹嶺に掲載した作品の中から十五句を自選して出句するのである。各自が過去十年を振り返りつつ自選を楽しんでもらいたい。完成までには多くの作業を必要とする。会員一人一人が編集委員に協力して立派に完成するのが今から楽しみである。



2016年5月号 (215)

   
    絵葉書二葉                         栗田 やすし

 

 

 手元に碧梧桐が三千里の旅中に茂枝夫人に書き送った絵葉書が二葉ある。その中の一つは明治三十九年十二月四日に一関から茂枝夫人に送った「中尊寺金色堂」の絵葉書で、碧梧桐は金色堂の写真の上に朱墨で「十二月四日参拝記念 俗にハ之を光り堂ともいふ 外から見ゆるはサヤ堂にて本物の光堂は中にあり」と記している。

 碧梧桐は三千里の旅先から茂枝夫人に頻繁に絵葉書を送っている。それは碧梧桐の長期にわたる留守を守る夫人への細やかな心配りであった。

 もう一通は続三千里の旅中、明治四十二年七月九日に書いた「親不知」の絵葉書で、写真の上に「右の方の穴が昔ハ汐の来る時逃げ込みし穴也」とあり、表には「宏の方へハまだ何ともいうてやるひまなしと姉さんに言へ 毎々の雨がつく〴〵イヤになる 明後日十一日当地出発二十日頃高岡か富山に出る筈 一週間許り飛驒を一人旅する予定」と今後の旅程を知らせている。旅信「続一日一信」によれば、碧梧桐は四日から十一日まで松本に滞在していたが、その間、雨続きで「つく〴〵イヤになる」に実感がこもっている。

 旅信「続一日一信」によれば、予定より一日遅く十二日に松本を発ち、白骨温泉、平湯を経て十五日に高山に入り、十七日まで滞在し、十八日に高山を発ち、古川を経て、二十日に予定通り富山入りし、翌二十一日には高岡に入っている。

 このように碧梧桐が茂枝夫人に旅程を知らせるのは、留守宅より必要書類や衣類等を碧梧桐が到着する何日か前に確実に宿に届けてもらうためであった。



2016年4月号 (214)

      初 心                             栗田 やすし
 

 平成二十二年に『実作への手引き』を作りました。これは、伊吹嶺の会員を対象に毎月開いた「伊吹嶺中日俳句教室」の冒頭に三十分間の俳話を伊藤旅遊氏にまとめてもらい、「伊吹嶺」に毎号掲載してきたものを一冊にまとめたものです。旅遊氏の筆録は神業とも言うべきもので、私が話すのをメモされる様子もなく、数日のうちに完璧な原稿にして発行所へ届けて下さったのです。私は「あとがき」で「旅遊氏の迅速かつ正確な筆録のおかげで、このように一本にまとめられたことに対しあらためて感謝の意を表します。」と書いています。
 
 このたび、『実作への手引き』に四篇を加えて増補改訂版『実作への手引き』を作りました。本書により、もう一度初心に返り、俳句の基本を実例に即して確認してほしいと思います。
   「推敲のポイント」の章では、推敲のポイントとして、
 一、定型は守られているか。
 二、季語が入っているか。
 三、句に切れがあるか。
 四、調べは良いか。
 五、写生は核心にふれているか。
 六、即物具象の表現であるか。
 七、事柄の説明をしていないか。
 八、季語は有効に働いているか。
 九、言葉の集約、省略はできているか。
 十、自分のうたいたいこと〈感動〉が表現できているか。

の十ポイントを挙げて解説しています。
 
  この推敲の十ポイントについて常にチェックして句会に参加すれば、指導者の選評や仲間の感想を聞く態度も自ずとより真剣なものになるはずです。
 
 何事をするのにもマンネリ化はおそろしいことです。私たちは常に「初心忘るべからず」を胆に銘じていたいものです。




2016年3月号 (213)

 わが書斎                           栗田 やすし
 

 この冬は暖冬と言うことで名古屋地方では年が明けてもまだ雪は降らず、三が日は春を思わせるほどのぽかぽか陽気であった。(一月二十日になって初雪)
 私の育った岐阜市では大雪と言うほどではないがよく雪が降り、小学生の頃は長良川の土手で手製のスキー板で雪滑りをして遊び、家の中では唯一の暖房器具の掘火燵に入って、凧や模型飛行機を作ったり、冬休みの絵日記など書いたりしたが、縁側にあった机で勉強したという記憶は殆どない。夏休みも草野球や川遊びなどに夢中になって、机に向かって勉強する暇などなかった。
 日大を定年退職してから家にいる時は、ほとんど二階の書斎で時を過ごす。北東二面の壁は書棚である。部屋には机が二つあって、一つは西の壁に向かってパソコンとプリンターが置いてあり、もう一つは部屋の真ん中にある。私はその間にある回転椅子に掛けて、パソコンを使うときは壁側の机に向かって掛け、ものを調べたり、ペンでものを書くときは、椅子を半転させて中央の机に向かうのである。
 中央の机上の本立てには、澤木・細見両先生の全句集と、漢和中辞典、古語・国語両辞典、類語新辞典、それに三年日記が立ててある。あと机上には電子辞書、筆立て、手動鉛筆削り、虫眼鏡、それに句帖、雑誌などが雑然と置いてあって、ものを調べようとすると机上だけでは無理で資料を床の上に広げることとなる。
 壁には澤木・細見両先生の写真と碧梧桐の色紙額、それに二種類のカレンダーなどが掛けてある。その外では孫たちの写真と、カレンダーから切り抜いた仔犬の写真があちこちに貼ってあり、その愛くるしさに心癒やされている。



2016年2月号 (212)

 雨だれ                             栗田 やすし
 

 私は吟行に出かけても、その日に投句する句を作るのがやっとで、その場で十句、二十句を作るということなどとても出来ない。
 昨年七月におこなわれた関東支部・静岡支部合同鍛錬会は北鎌倉の円覚寺・東慶寺を吟行するものであった。当日は朝から雨模様で、円覚寺の大方丈の縁に腰を下ろす頃はかなり激しい雨となり、私は大屋根の軒先からとめどなく落ちる雨だれにみとれて、これを句にしたいと思った。そこで、
  雨だれの音に聞き入る梅雨の寺
と句帳に書いた。が、これではこのスケールの大きな雨だれを捉えていないと思い、次に、
  百条の雨だれの音梅雨の寺
  方丈の雨だれしげき梅雨の寺
とした。しかし、これでは雨だれの激しさだけで美しさが詠めていないと思った。とこうするうちに投句の時間となったので、雨だれの美しさを言おうと
  雨だれはしろがねの艶梅雨の寺
として投句した。しかし、後日、「雨だれ」と「梅雨の寺」では付きすぎというか、「梅雨」が蛇足であることに気付き、
  千筋なす雨だれ涼し円覚寺
として「伊吹嶺」に発表した。「雨だれ涼し」の語を得て、句の善し悪しは兎も角として何とか名刹円覚寺でのあの感動を詠みとることが出来たと思った。



2016年1月号 (211)

 新 年                             栗田 やすし
 

 歳を取ると一年の過ぎるのが早いというが、八十に手が届きそうになって、しみじみとそれを思い知らされる。数日後に「伊吹嶺」新年号の編集と併せて三月号を企画し、執筆者に原稿依頼をするのだが、まだ今年を一か月以上も残しているのに、もう今年は終わったとの思いを強くする。
 久し振りの小春日和に書棚を整理していたら、以前に古書展で求めた碧梧桐の短冊や書簡が出てきた。
  
ひやひやと積木が上に海見ゆる    碧
  編ミ手袋のほぐるれバほぐす     碧
  夜の焚き出しの隙間をもる火     碧
  新年何もないたゞに筆とらず     碧

 一句目は明治三十八年、二句目は大正六年の作。三句目は大正十二年の関東大震災の折の句で、何れも『碧梧桐全句集』に収められている。ところが四句目の新年の句は全句集に入っていない。句風と書体から見て大正以降のものと思われるが、今すぐには何時何処で詠まれ、揮毫されたものか分からない。
 ただ、年中多忙を極めた碧梧桐が「何もない」新年を迎えてくつろいだ様子を窺うことが出来る。「たゞに筆とらず」はそうした気分でいるので、簡単に筆を執ることはしまい、たとえ弟子が揮毫をせがんでも今日ばかりは駄目だよと言ったところであろう。
 平成二十八年はどんな年になるのであろう。世界情勢は不安材料いっぱいだが、何もない新年を迎えたいものである。

 



2015年12月号 (210)

  
 初心に返る                          栗田 やすし

 伊吹嶺」が風愛知支部の句会報を基盤として創刊したのは平成十年一月であった。その創刊号の「あとがき」で、清水弓月氏は編集者の一人として

  「伊吹嶺」創刊号をお届けします。草創の苦しみと言うか、初めは雑誌のイメージがつかめず戸惑いを感じましたが、編集会を重ねるうちに「伊吹嶺」の狙いや特色がはっきりしてきました。見られる通りの内容ですが、「風」の即物具象の手法を受け継いでしっかりした写生句を作ること、研究や観賞にも力を注いで総合的に俳句の力高めること、とりわけ若い人たちに活動の場を与え成長を見守っていくことの三点を確認しあいました。

と、編集者としての熱い思いを記している。

 あれから十七年の歳月が流れ、「伊吹嶺」はこの十二月号で二百十号となったが、清水氏の記した目標が着実に達成しつつあることをうれしく思っている。

 本年度の伊吹嶺賞は関根切子さんの「鎚の音」二十句であった。東京の下町風景を即物具象の手法で丁寧に詠んだもので、多くの選者の高い評価を受けたが、伊吹嶺では他にも着実に若い人たちが力をつけてきて頼もしい限りである。

 研究面では若手のホープとして荒川英之さんが挙げられる。「伊吹嶺」誌上で連載中の澤木欣一研究は、その精緻な論証による論考に大いに期待しているところである。

 私は常日頃、皆さんに大きな夢を抱くように言っている。その夢を目標として努力を惜しまなければその夢はかなえられるものと信じているからである。

 来年は「伊吹嶺」創刊十八年目の年であり、二十周年を間近に控えた年となる。全員初心に返り、地道な努力を重ねて実りある年にしたいものである。


 



2015年11月号 (209)

  
 俳句の基本                          栗田 やすし

 
スポーツだけでなくあらゆる分野で基本の大切さが言われている。
 基本は反復練習して身につくものであるが、ただがむしゃらに繰り返しておれば良いというもではない。
 俳句の基本は写生である。基本の写生を身につけないままでは何千、何万句を作ったとしても本物とはほど遠いものでしかない。
 俳句の基本は言葉による写生と、季語の働きを充分理解することである。
 秋晴れの小径を散歩していて犬と出会い、可愛いと思っても、それを句の上に直接「可愛い犬」と述べたのでは、単なる説明に終わってしまって、その可愛いという思いの強さや深さは人にうまく伝わるものではない。その犬に自分の思いを託して明らかにすると、「可愛い」という思いが、自分一人の枠を越えて大きく拡がるのである。
 つまり、「可愛い」と言う抽象的な表現は写生ではない。「可愛い」という犬に対する思いを、その犬の有り様を言葉で具体的に写すのが即物具象の写生である。
 例をあげれば
  長靴でスキップする子さくらんぼ     切 子
 幼稚園児であろう。雨上がりで、水溜まりのあるような道を無邪気にスキップする子をみて、作者は「ああ、可愛い」と思ったのである。それを〈長靴でスキップする〉と具体的に描写したことで読み手に十分「可愛さ」が伝わってくるのである。ここで、季語「さくらんぼ」が充分に生かされていることも忘れてはならないのは言うまでもない。
 俳句の基本は確かな写生と季語の斡旋であることを忘れてはなるまい。スポーツでも基本を疎かにして我流を通せば、それなりの成果は得られるかも知れないが、一流といわれるような



2015年10月号 (208)

 
 綾子忌に寄せて                          栗田 やすし

 
綾子忌が近づいて来た。綾子先生がお亡くなりになったのは平成九年九月六日で、九十歳でした。今、手元に「風同人会々報」第52号(平成九年十一月一日)があります。一面の見出しは「愛惜、細見先生逝く」で、澤木先生は
 
  
秋ゆふやけ一生いのち耀やけり
 
と詠まれ、三面と四面に「綾子先生を悼む」として百九十名の追悼句が載せられ、伊吹嶺関係では、以下の十五名の句が載せられています。
  

  棗の実綾子の空と思ひけり     梅田  葵
  焼栗の皮むくことも涙かな      栗田やすし 
  武蔵野の風も棗も残し逝く      栗田せつ子
  鶏頭花夢で会ひたる師の若し    篠田 法子
  雲薄き白露の空を逝き給ふ      清水 弓月
  夢の世に栗など茹でて在せしか   下里美恵子
  山繭のさみどり綾子の彩なりし    鈴木みや子
  秋草の中に見えたり師の笑顔    中川 幸子
  桐一葉地に温もりのありぬべし    夏目 隆夫
  枕辺に綾子歳時記月今宵       夏目 悦江
  綾子逝き野にも畦にも曼珠沙華   平松 公代
  胡蝶蘭師の伸びやかな墨の文字   福田 邦子
  綾子亡き縁にこぼれて柞の実     福永 京子
  秋の虹ひとり渡りて逝かれしか     森  靖子
  木曾馬籠鶏頭の種採りしこと      山下 智子

 
 


 

2015年9月号 (207)

  
 紫 苑                          栗田 やすし

 

 句は感動がなければ生まれない。しかし、俳句では「うれしい」とか「かなしい」という心のうちを説明する言葉を使って表現することは好ましくないと言われている。
 俳句は「うれしい」「かなしい」といった抽象的な言葉を使って表現すると、それだけで終わってしまうからである。俳句は「抽象的な言葉」だけでは表現し得ない感動を徹底した具体描写で表わすのである。
  
  
綾子師の手の温かりし紫苑咲

は平成十八年の作である。私は自註で、「
紫苑が咲くと綾子先生を思い出す。さよならの手のぬくもりが今も忘れられない。」と書いた。
 優しかった綾子先生に対する追慕の念である。
 
 私たちが目指す即物具象の写生句とは、混沌の状態の感動を「物」を核として結晶させ、結晶した感動を「物」を通すことによって定着させるものである。
 
 しかし、ここで忘れてはならないのは、実景が実景であるだけでは詩ではあり得ないということである。実景がイメージに転化して始めて作品の内実、作者の心意が強く、鮮明に働きかける力を持つのである。
 
 晩年、入院された綾子先生を見舞った折、帰り際に先生が手を差し伸べてくださり握手してお別れしたときの感動を〈手のぬくかりし〉と、「手」を核として結晶させたのである。
 
 わが家の庭に紫苑が咲いたのを見て、先生の
  
 
山晴れが紫苑切るにもひゞくほど   昭和十四年

の句がふと思い浮び、数々の先生との思い出に耽ったのである。

 



2015年8月号 (206)

  
 『ガレの壺』                             栗田 やすし

 
宇野美智子さんの第一句集『ガレの壺』(伊吹嶺叢書第四十六篇)は句歴二十余年の努力の結晶である。句集名は〈ガレの壺見て紅葉を眩しめり〉から採ったものである。 
 美智子さんの句は
 
 
コスモ スを抜けて牧場に乳買ひに
  夫婦して採りし一斗の梅漬くる


など豊かな自然に恵まれた作手村{現新城市}の別宅での暮らしの中から生まれた句が多い。この別宅は御主人のバイオリン製作の工房であると同時に美智子さんの俳句工房であり、お嬢さん二人にとっては演奏会場でもあった。
  
  
新作のヴィオロンの艶秋立てり
  撫でやれば指吸ふ仔牛春の霜  
  チェロ弾ける子の後れ毛や秋灯


美智子さんには国内外の旅吟も多い。

  
教会にモーツアルト聴くプラハの夏
  老鶯の鳴きつぐ径や野麦越え
  朝焼に南十字の消え残る

 「跋」で都合ナルミさんが、美智子さんの人柄を「大変おしゃれでかわいいお人で、すぐに誰とでも友達になれます」と書いていますが、まさにその通り、

  
美人茶をつい買ひ込めり夏の旅

 お洒落で、このお茶目なお人柄が多くの人に好かれているのである。
 これからも仲間と共に俳句を楽しんで貰いたいと思う。

 




2015年7月号 (205)

  
 焼夷弾
                                      栗田 やすし

 「昭和二十年七月九日午後十一時ごろにB―29の編隊が襲来し焼夷弾を投下、岐阜市中心部がほぼ焼け野原となった。私は小学二年生であった。
 
 私の育った鏡島村(現岐阜市)は岐阜市の西方に隣接した旧中山道沿いの集落で、空襲の標的になるような村ではなかったが、たまたま高射砲が畑中に据え付けてあったため焼夷弾を投下されたのである。幸い小学校の校舎は焼失を免れたものの多くの家屋とともに鏡島弘法(乙津寺)は全焼した。
 
 空襲の夜は中学生の兄と母は家を守り消火に当たったが、私は祖母と長良川の土手に蒲団を敷いてB―29が投下する焼夷弾が火の玉となって降ってくるのを眺めていた。その火の玉が民家を燃やし、真っ暗な長良川の川面に落下し、まるで鵜篝の炎のようになって次々流れていった。それはこの世のものとは思えない妖しくも幻想的な眺めであった。
 
 わが家は幸い焼失を免れた。が、翌朝、隣の畑に焼夷爆弾による大きな穴が出来ていたのにはぞっとさせられた。
 
 八月十五日、天皇の終戦の玉音放送を聴いたのは、近くの菖蒲池で兄と鮒を釣っていて、釣針を家に取りにもどったときであった。母や叔母たちが真剣な面持ちで縁側に置いたラジオを囲んでいるのを見て異様な雰囲気を感じたが、玉音放送が始まり、日本が戦争に負けたのだと聞かされて子供ながらに悔しくて涙が止まらなかったのを覚えている。
 
 戦後しばらくは、小学校の運動場は甘藷畑となり、運動会はなく、遠足は、各自手製の藁草履を履いてひたすら歩くというものであった。
 
 新憲法発布を祝うポスターを描いて玄関に掲示されたのもこの頃である。


2015年6月号 (204)

  
 初心=再び
                                      栗田 やすし

 「初心忘るべからず」は、前に書いたように、句歴が長くなると、つい自分の技におぼれて、物の本質を知ろうとせず、手際よく一句にしてしまうことへの警告である。
 句会で席題が決まるとベテランはそれこそ手際良く一句をものにするが、新しい発見・感動といったものはなく、大概は何処かで見たような句になりがちである。
 しかし、初心者に向かって「初心忘るべからず」と言ってもしょうがない。彼らは初心そのものなのだから。
 近年、団塊の世代が定年を迎えてカルチャーセンターの俳句教室に入ってくる人たちがいる。
 そういった人たちは俳句について初心者であるが、これまでに何らかの形で俳句と関わりがあり、機会があれば本気で俳句を学びたいという人たちである。
 当然のこととして新人は俳句の基本から学ぶこととなるが、こうした人たちは熱心で、新鮮な気持ちで俳句に向かっているため、基本をしっかり習得すれば、数年で長年俳句を作ってきた先輩たちに負けない詩情豊かな句が作れるようになる。
 それは、団塊の世代といわれる人たちは俳句では初心者であるが、ただの初心者ではなく、すでに文芸・芸術とは限らないが、さまざまな分野で目標に向かって努力し、域に達したという経験の持ち主であり、そうした経験が新たに学ぶ俳句に有効に働いて、俳句の世界を豊かにしているからである。
 まさに「初心者侮るべからず」である。 


2015年5月号 (203)

  
 季重なり
                                      栗田 やすし

 季重なりはいけない、ましてや季節の異なる季語との季重なりはいけないといわれている。
 
 一般に季重なりがいけないと言われるのは、例えば、「春風」とか「春の月」というように春という字がついているのに、さらに「桜」「桃」とか「麗らか」などの季語とあわせて使うことは重複した感じを与えることになるからこれは好ましくない。つまり、「桜」「桃」などは春の季語ときまっているのに「春風」という春の文字を用いた季語を、その上に重ねて用いることは全く無用ということになるからである。ところが、細見綾子先生の代表句の一つ 
  でで虫が桑で吹かるゝ秋の風
の句では、「秋の風」という秋という字がついている季語に、「でで虫」という夏の季語が用いられていて、明らかに季節の異なる季語による季重なりである。
 
 この〈でで虫が…〉の句は明らかに秋の句であり、秋風の吹く頃に辛うじて生きているでで虫ということになる。綾子先生は
  もう晩秋ででで虫の殼の艶も失せ、桑の幹と見まがうほどになっている。でで虫はこうして秋風に
 吹かれるのだということに感銘した。こういう秋風もある、という発見。丁度その時の自分の姿と同じも
 のだと感じたのだ。
  
と自解されている。先生の生命をでで虫に投影させての感慨である。
 
 われわれは季語が俳句の命であることを肝に銘じて、季重なりとなっても一句の中で中心となる季語が十分生きる句を作るよう心掛けたいものである。



2015年4月号 (202)

  
 種火
                                      栗田 やすし

 私たちは日常生活そのものが俳句と深く関わっていることが理想であろう。
 しかし、俳句を日常生活の中で求めると言っても、私たちは俳句を安易な娯楽としてではなく、あくまでも文芸性を重んじ、俳句が詩の一分野であることを確認して、実作に当たらなければならない。
 
 では詩としての俳句を作るためには私たちはどうあるべきなのだろうか。私は二月号で、「俳句の文芸性」は、
 一、俳句は定型と季語によってなりたつ詩であること。
 一、態度・方法として写生を重視すること。
 一、俳句が韻文であること。

であると書いた。つまり、俳句は日常生活に入り込んでくる季語を五・七・五の調べで詠い上げる詩である。
  詩は「あゝ」(驚き)であると言ったのは誓子である。驚きは発見によって生まれる。
  
  春の風笊編む竹の先踊る      和子
  花屑をつけてもどれり三輪車    ひろ
  葱一本駅舎に落ちし市の朝     明子

 
 これらの句の〈竹の先踊る〉〈花屑をつけて〉〈葱一本〉は日常生活の中での小さいながらも作者の確かな発見であり、驚きである。これらの句には理屈では割り切れない詩情が生まれている。つまり、三者は日常生活の中で間髪を容れずに感動する目と心を持っていたと言うことである。
 
 誓子はこれを日常生活の中で「種火を絶やさぬこと」と言っているのである。 



2015年3月号 (201)

  
 初心
                                      栗田 やすし

 物に触れ、ああ美しいな、ああ悲しいなと感動してはじめて詩が生まれる。
子規は物に感動したら、感動そのものを詠むのでは無く、感動を引き起こしたもとの物を詠めと説いた。これは写生の基本である。が、私たちは即物具象の写生句を俳句の基本と心得て句作に励んでいる。それは、ただ、主観的な言葉を避けて、単に物を写せば良いというのではない。大切なことはその物の本質を知らなければならない。ただ単に物の表面を写しているだけでは物の本質はつかめない。
 
 俳句で、物の本質を知るには、流行の情緒や固定観念に合わせるのではなく、直接物に触れて感じることが大切である。
 この固定観念(常識)を私は心臓を覆った悪玉コレステロールにたとえているが、これを思い切って洗い流せば、子供のような純真な感受性がよみがえるのである。芭蕉の
  
  俳諧は三(せき)の童にさせよ。初心の句こそたのもしけれ

も、このことを言ったものである。
 
 句歴が長くなると、つい自分の技におぼれて、物の本質を知ろうとせず、手際よく一句に仕立ててしまうようになる。
 澤木先生は
  最大公約数的な常識で句を仕立て、一応の技巧でつじつまを合わせた句が今日いかに多いことか。
と嘆いておられた。われわれは、初心を失えば巧者の病に陥るということを肝に銘じて日々句作に励まなければなるまい。



2015年2月号 (200)

  
 雪
                                      栗田 やすし

 十七日の夜から名古屋地方に十二月では九年ぶりという大雪が降った。
 わが家は名古屋市の東南にあり、旧東海道の鳴海宿に近い丘陵地帯の新興住宅地で、朝、目を覚ますとわが家の庭は真っ白な雪に覆われていた。
 
 近年、名古屋にまとまった雪が降ることはなく、これも温暖化のせいと勝手に思っていたので不意を食らった感がある。
 マスコミの報道によれば、名古屋での積雪は二十三センチで、市民生活に大きな影響を与え、鉄道や航空機のダイヤも乱れたという。
 
 私は成人するまで旧中山道沿いの鏡島村(現岐阜市)で過ごしたが、ひと冬に三十センチほどの積雪は何度も経験し、家の近くの長良川の堤防で手製のスキー板で滑って遊んだものである。
 雪の思い出と言えば、高校の卒業試験の初日に大雪となり、何時もより早く家を出て長良川堤にゴム長靴も埋まるほど積もった雪を搔き分けてやっとの思いで学校に辿り着くと、「今日の試験は延期」の張り紙にがっかりしながらも、半ばほっとして、また雪を搔き分けて帰宅したことを懐かしく思い出す。
 日大の三島キャンパスに二十二年間勤務したが、その間三島に雪が降ったのは三度ほどで、しかもグランドがうっすら白くなっただけである。
 とは言っても伊豆の山々には雪が降り、春になっても山肌に残雪を見ることが出来た。良く晴れた日には四階の研究室の窓から雪の三島富士をくっきりと見ることが出来、半ば単身赴任で溜まったストレスを癒してくれたものである。
 
 この豪雪、東北で被災された人々はどのように過ごしておられるのだろうか。



2015年1月号
(199)

 
 漢字の表記
                                                 
 栗 田 やすし 

 かつて教科書俳句の表記について書いたことがある。その中で、

  かりかりと蟷螂蜂のを食む       誓子

  夏草に汽罐車の車輪来て止まる      

の二句で、「」を「顔」に、また、「汽罐車」を「機関車」に表記を改めることは教科書だからといって許されることではないと書いた。それは漢字には漢字特有の目に訴える一種の形象化―イメージ造り―の働きが備わっていることを認めなければならないからである。

 ちなみに誓子は自註で「蜂の顔を字でそのまま表そうとした。」と述べているのである。

 私が句集を出したときに「()つ」と表記した句について「立つ」ではないかと編集者から言われたが私は「翔つ」のままで良いと答えたことがある。

 こうした例は他にもある。例えば

 「湖」(みずうみ)を「うみ」と、「娘」(むすめ)を「こ」と読ませ、また、「没」(ぼつ)を「いる」と読ませるなどである。

  (うみ)を断つ夏木の幹のただ太し       虚子

  まろびたる()より転がる手毬かな     虚子

  冬日()りぬと空城を降り来る       誓子

 先にも触れたように詩である俳句の表記において漢字の持つ一種の形象化と、調べ(リズム)を大切にすることから生まれた表記であって、このような表記を間違いであると決めつけることはできないであろう。


 



2014年12月号
(198)

 
ままこのしりぬぐい

                                                 
 栗 田 やすし 

 「ままこのしりぬぐい」がタデ科の一年草「蓼の花」のことだと知らされて驚いたのはそんなに以前のことではない。茎は細く、四角で多くの刺が逆に生えているので、継子いじめの道具にするというのだろうか。
 「ままこのしりぬぐい」は『風歳時記』には「蓼」の副季語としてもなく、私たちが作った『伊吹嶺季寄せ』にもない。
 『角川俳句大歳時記』には「蓼の花」の副季語として「ままこのしりぬぐい」があり、   反対の崖にままこのしりぬぐい   岩淵喜代子
ほか三句が例句として挙げられている。
 こうした変わった季語は他にもある。例えば、「じごくのかまぶた」は角川の『図説俳句大歳時記』(春)に()(らん)小草(そう)の副季語としてあるが、例句はない。シソ科の多年草で田畑の畦などいたるところに見られるとある。
 以前、伊賀に吟行した折、()(らん)小草(そう)が咲いていて、これを「地獄の釜の蓋」というのだと教えられて、
  伊賀に来て摘めり地獄の釜の蓋
と物珍しさで詠んことがある。
 この度、待望の沢木欣一、細見綾子両先生の全句集が角川書店から刊行された。この全句集の刊行は伊吹嶺の仲間にとって両先生がより身近になったわけで、誠に喜ばしいことである。ちなみに、両先生には「ままこのしりぬぐい」も「じごくのかまぶた」の句もない。このような季語は両先生にとっては関心外だったのだろう。



2014年11月号
(197)

 

即物具象

栗 田 やすし 

 沢木欣一先生が俳句の基本として繰り返し説かれた即物具象の俳句をめざして私たちは句作に励んでいるが、句会で安易な事柄俳句、言い換えれば月並俳句を良しとすることがあるのではなかろうか。

 ここでもう一度、即物具象とは何かを確認する必要がありそうだ。

 沢木先生は、

 即物具象とは、まだ形を成さない混沌の状態の「感動」を結晶させるための核が必要であり、それが「物」であり、俳句にあっては物に即し、物を通すことによって感動が定着する。これが俳句の大原則である。

と説いておられる。これを具体的に見ると、

  南天の実に惨たりし日を想ふ

の句は先生の昭和二二年の作で、先生は「南天の実という具象の物に即して戦争中の暗い日々の重なりが逆に浮かび上がってきた。」という。つまり、「南天の実」には敗戦によって復員した兵士の万感の思いが結晶しているのである。作者の感動が現実に見た「物」としての南天の実に即し、南天の実を通すことによってみごとにイメージ化しているのである。作品の中の「南天の実」はもはや現実の物ではない。

 句会で気の利いた事柄俳句に気を引かれることがあっても、それは決して伊吹嶺の目指す俳句ではないことを心に銘じておくべきであろう。

 



2014年10月号
(196)

 校正恐るべし

栗 田 やすし 

 私は卒業後すぐ地元のG新聞社で新米の整理記者をしていたことがある。
 あるとき、何時も担当しているT紙面でなく、家庭欄を臨時に担当したとき、横書きの「家庭」というタイトルを、うっかり左右逆の「庭家」と組んで印刷してしまったのである。
 当時はまだ活版印刷で、編集室で紙面の割り付けを終えると、地下の印刷工場に下りて文選工のおじさんと版を組むのであるが、新米の悲しさ、活字が左右逆になっているのをうっかり見過ごしてしまったのである。それに気づかなかったのは如何にもそそっかしい私らしいのだが、この誤りを校正部の誰も気づかず、編集長も見過ごしてしまったのも不思議であった。
 誰もが出来上がったばかりの句集を心ときめかして読むのだが、一字でも誤植が見つかるといっぺんに悲しく憂鬱になる。その誤植が、読み手にすぐに誤植と分かるものであれば恥ずかしいながらも幾らか慰められるが、人名や数詞のように本人か著者にしか分からない誤植の場合は救いようがない。そこで、几帳面な著者は誤字の上に正字を貼り付けたり、正誤一覧を添えたりする。それは読者に対して親切であり、著者としての責務とも言えよう。
 と書いたところで、さっそく誤植の発見である。「俳句四季」9月号が届いて愕然としたのである。
  夕風や人慣れしたる通し鴨
の「通し」が「遠し」になっているではないか。完全に私の校正ミスである。著者校正で何を見ていたのかと悲しくなる。まさに校正おそるべしである。



2014年9月号 (195)

 中山純子先生を悼む

栗 田 やすし 

 中山純子先生の訃報を七月二十八日の夕刻、金沢の中條睦子さんから電話で知らされ一瞬耳を疑った。それというのも今年で十二回目となる伊吹嶺賞の選をお願いしたときには快諾を得ていたからである。純子先生には平成十五年の第一回から選をお願いして来たが、先生には伊吹嶺賞の選だけでなく、何かにつけてご指導、ご助言を仰いできた。

 今も強く記憶に残っているのは、平成十三年五月十二日に愛知「風」創設三十周年・「伊吹嶺」創刊三周年記念大会で「俳句での出会い」の演題でご講演をいただき、「敗戦後の物にも精神的にも餓えた時代に、せめてもの活路は俳句であった」と「風」草創期について語られたあと、芭蕉の「虚に入りて実を行うべし」の言葉を挙げられ、

写生は大事だが、そこに人の息吹が吹き込まれるとき俳句は大きく高められる。物の本性を虚から見抜く、逆に永遠の中から一瞬の実を掬い上げる。どちらも容易に出来ることではないが、私たちは「継続は力なり」を心に、とにかく続けていくことが大切です。
                                  (森靖子・大会記より)

と説かれたことである。

 その後も、先生には、平成十八年五月二十一日の伊吹嶺十周年事業・細見綾子第五句碑建立について、また、同年九月九日の沢木欣一・細見綾子先生を偲ぶ会を催すに際して懇切なご助言をいただいたのも有難いことであった。

 これまでに、沢木・細見両先生をはじめ多くの「風」の大先輩を失い、今また、中山純子先生を失ったことは痛恨の極みであり、「『風』も遠くなりにけり」の思いを強くするのはわたしだけであろうか。                             合掌

    



2014年8月号 (194)


言葉に出会う

栗 田 やすし 

 綾子先生は第四句集『和語』の「あとがき」で、

 「日本の言葉は日本の美しい自然とそこに生活して来た人間によって生まれ伝わって来たものである。」「自分が俳句を作って来たことは日本の言葉に出会うためであったのかも知れない。心とか自然とか区別せずに、それらを含めて言葉をあらしめたい。」

と書いておられる。先生は、日本の言葉に出会うために俳句を作って来た、それは、心とか自然とか区別せずに、それらを含めて言葉をあらしめたいというものである。

 私たちはよく俳句は言葉探しであるという。感動したものやことを表すのに最もふさわしい言葉を探すというのである。感動したものが花であれば、花の名前を知らねばならないし、鵜飼を見れば、「かがり火」「鵜縄」という言葉を知らなければならない。そのうえで、それらの状況を写生するのであるが、そこでも、その状況に最も相応しい言葉を探すことになる。しかし、先生が「言葉に出会う」というのは、第七句集の「あとがき」で「あらゆるもの、森羅万象、人間を含めての大自然に対する挨拶・問いかけを貧しいながら続けてきた」と書いておられるように、先生が出会おうとされた言葉は、人間を含めて森羅万象との存問によって生まれる言葉探しということである。

   天然の風吹きゐたりかきつばた

 この句は、小堤西池に群生するかきつばたがそよ風に揺れている風情に感動し、この大自然との存問によって、豊かで自在な「天然の風」という言葉を「あらしめた」のである。

 



2014年7月号 (193)


寒 椿

栗 田 やすし 

 昭和四十九年に
  
退院の妻寒椿眺めをり (昭和四十九年)
の句を作り、後の『自註現代俳句 栗田やすし句集』で「死産であった。昨日の雪がまだ庭に消え残っていた」と記している。この年は、私は三十七歳、この年四月に東海学園女子短期大学の専任講師となっていた。
 この時、すでに一男一女を得ていたので、妻は次は女児と知って生まれてくるのを楽しみにしていたのである。
 母に宛てた手紙を整理していたところ、この死産の日に宛てた手紙があり、俳句を書いた原稿用紙が添えてあった。俳句を作って母に送ったことは記憶にあったが、どんな句を作ったかはすっかり忘れていた。

  
冬の鵙胎児死亡と走り書き
  寒き小さき十指揃ふをつまみあぐ
  冬の暮肉塊なれど確かに吾子
  降誕祭児を失ひし妻と吾れ
  吾子逝くや木箱に蜜柑ひしめき合ひ
  行く年や退院の妻抱くものなし
  年の暮わが家寒しと妻つぶやく
  乳房張ると冬の椿を眺めをり
  行く年や妻と秘めたる喪に服す
  

無事生まれておれば今年で三十九歳。どんな人生を歩んで来たかと思うと感慨も一入である



2014年6月号 (192)

  
 雪 渓

栗 田 やすし 

 

 書庫で捜しものをしていて偶然懐かしいものが書棚の隅から出てきた。それは誓子直筆のサイン入りの黄ばんだ「大同工業大学々歌」の楽譜(作詞山口誓子、作曲大橋博)で、裏に誓子の鉛筆書きの投句用短尺が三枚貼り付けてある。

  雪溪が殘る()れ場に五指開き

  秋晴に眞直ぐの山路ひた走る

  山腹の雪溪落ちず終に殘る 

この三句は、昭和四十三年九月に、誓子先生のお伴をして車で乗鞍登山をし、一重ヶ根温泉の鄙びた宿に泊まり、同行六名ほどで句会をした折、誓子先生が投句された投句用短尺のうちの三枚である。句会後、この三枚を記念に、その日に貰った楽譜の裏に張り解けておいたのである。

 この三句の中で、〈雪溪が…〉の句のみが句集『一隅』に「乗鞍行」の前書きを付して

  山腹の雪溪落ちずして殘る

の形で、「落ちず終に殘る」を 「落ちずして殘る」と推敲されて収録されている。「終に」という主観を排除して雪渓そのもの(●●)を描いたのである。

 投句用短尺に書かれた文字は、色紙や短冊に揮毫するのと全く同じ書体で丁寧に書かれており、一句目の「崩」に「が」とルビが付してあるのも如何にも誓子先生らしい気配りである。当日の私の句は〈登山道下る霧出て霧に入り〉〈霧切れて索道の材宙吊りに〉の二句であった。

 霧の登山道を恐る恐る下ってきたことを今懐かしく思い出している。



2014年5月号 (191)

  
 基本の徹底

栗 田 やすし 

 私は中学時代は野球に熱中し、高校では二年生から剣道を始めた。
 大学入学と同時に剣道部に入り、昭和の剣聖高野佐三郎の高弟で、天覧試合で二年連続優勝された三橋秀三先生(七段)とその門下生(四段~五段)のもとで猛烈な稽古に励み、四年の春に四段を取得できた。これはまぎれもなく猛稽古の成果であった。
 私はこれまでにも俳句の仲間に、大きな夢を抱き、その夢を目標と定め、その目標の達成のために努力しようと言い続けて来たが、それは三橋先生が常々、地方大会ではなく、全国制覇を目指せと言われて厳しい稽古をつけて下さった事が心に染みついているからである。全国制覇など地方の大学では夢のまた夢であったが、私たちはそれに向かってひたすら稽古に励んだものである。
 先生は常日頃、小手先の剣道では大成しないとされ、基本技の反復練習の重要性を説かれていた。
 思い出すのは、私が三段に昇格した頃、先生に稽古をつけていただき、思いきって面を打ち込んだとき、先生はすかさず「よし、今の面だ」と言われたのである。基本中の基本の面打ちを先生に「よし」と言われたとき、これまでの迷いが一気に吹き飛んだ思いであった。
 四年生の夏から卒業までの九ヶ月の入院で剣道の道から脱落した私にとって俳句は新しい目標となった。師として仰いだ沢木欣一先生が口を酸っぱくし、俳句の基本は写生であり、小主観に狭く固定しては心が新しくならないと説かれたが、これはまさに、「小手先の剣道では大成しない」と説かれた三橋先生の教えに通じるものであると思っている。


 


2014年4月号 (190)

  

神の手

栗 田 やすし 

  「伊吹嶺」同人の牧田章さんが亡くなった。八十四歳であった。

 牧田さんは十六歳の頃、学徒動員による過労等で視力が極端に悪化し、やがて完全に失明されたのであった。東京教育大学理療科を卒業後、母校の岐阜盲学校の教員になり、昭和六十二年四月に同校校長となり、「脊椎復元手法」など理療教育の近代化に寄与されたのである。

 牧田さんと私との出逢いは大学を卒業して間もなくしての句会の席であった。

 以後、句作をご一緒する事となったが、牧田さんに「四十までの命」と言われた命が今日まで生き長らえたのは偏に牧田さんの御陰と感謝している。

 牧田さんは「流域」「天狼」「風」に投句され、これまでに『藁塚』『チロルの嶺』『梅園』の三句集を上梓されている。『藁塚』は 俳壇最初の点字句集で、扉に誓子の「炎天の遠き帆やわがこころの帆」をあげて、「わたしはこの句にめぐりあって、俳句の『心』に触れる思いであった」と記されている。

 『チロルの嶺』は欧州旅行の書き下ろし句集で、扉で誓子は

   牧田さん あなたの指先は 私の(からだ)を残る(くま)なく知つてゐます

   あなたの指圧は神業(かみわざ)です 西洋のどこにもありません

   東陽の優越 私は、さう信じています

と、その「脊椎復元手法」のすばらしさを讃えている。

 俳句は

  蚊柱を二つに分くる生身もて

  吹雪く道すれちがひざま声を出す

  藁塚にもたれて藁の香にひたる

といった音の把握、触感の世界が豊かに存在するのが特色である。      合掌

 




2014年3月号 (189)

  
 長良川

栗 田 やすし 

 

 私の育った鏡島村(現岐阜市)は長良川に沿った細長い村で、中山道の加納宿から(ごう)()宿の中間にあって、村の三ヶ所に渡し場があった。

 私の家の裏にそのうちの一つがあり、土堤に上れば西に伊吹山、東には金華山が望めた。

 長良川は鵜飼で知られているが、私の少年時代は、旅館の前で観光客に見せる中鵜飼とは別に、それより上流と下流で漁を目的とする鵜飼があり、天皇に献上する鮎は当時も今も御漁場で獲り、そこでの一般の漁は禁止されている。

 当時、下鵜飼の終着点は鏡島の川原であった。

 朝刊で今日は下鵜飼だと確認すると、中学の同級生のH君と、その夜はカンテラとたも網を持って、上流から七艘の鵜舟が赤々と篝火を靡かせてやって来るのを真っ暗闇の川原でじっと待っていた。やがて鵜舟が近づくと篝火の明かりに驚いた鮎が川の深みから川原の方へ逃げてきてバタバタ跳ねる。それを私たちはカンテラで照らして掬うのである。

 鵜匠は漁を終えた鵜舟を川原に寄せ、十六羽の鵜を二羽ずつ鵜籠に入れ、鵜篝の明かりの下で鮎と雑魚とを仕分け終ると、七艘の鵜舟は鵜篝を消して上流へと静かに帰っていった。

  鵜川原に残り鵜闇の底歩く

 近年、四万十川の清流が言われているが、当時の長良川は、井戸水のように澄み切っていて鮎・鯎・鮠も多くいて、川遊びの私たちは箱眼鏡を覗きながら、毛針を幾つもつけた糸を短い竿で操って鮠を釣り、のどが渇けば両手で水を掬って飲んだものである。

 
 


2014年2月号 (188)

  
 ふるさと

栗 田 やすし 

 かつて私は「母郷」という言葉が好きだと書いたことがある。母郷というのは母との思い出がいっぱい詰まっている土地という思いからである。
  
母と来て炎天の墓ひた濡らす
 この墓は鏡島弘法の境内脇に整然と並ぶ軍人墓地の中にある父の墓である。つまり、父は、私たち母子三人が満州の官舎から鏡島に引き揚げて来て間もなくして中支の戦闘で戦死。私二歳、兄六歳の春であった。
  
父の忌や母と榠の花数ふ
 父の忌日は昭和十四年四月二十五日。久しぶりに鏡島に帰り、庭の榠の花を母と数えた。母は、今年は花が多いと楽しそうにして話した。
 平成十四年に亡くなった母の遺品の中から、母宛の父の軍事郵便・軍人手帳の束とともに、父の戦死を知らせる中支○部隊の部隊長からの封書が混じっていた。それは「謹啓 去る四月二十五日趙家場付近の戦闘に於いて御夫君吉三郎君には勇戦奮闘遂に壮烈なる戦傷死を遂げられ候……吉三郎君の最期は誠に武人として真に亀鑑儀表たるに恥じざるものにしてこの点に関しては何とぞご安心下され度候 茲に謹みて君のご冥福を祈ると共にお悔やみ申し上げ候 早々」というもので、戦死の場所と日時を替えればあとは誰にでも当てはまる文面である。母はこれをどんな思いで読んだのであろうか。
  
父母の亡きふるさとの山眠りをり
 私はこれまで鏡島を母郷との思いを強くしてきたが、父母の亡き今、私の中で母郷は現実の土地ではなく、自分の心の中にある形を為さない追憶の世界、つまり、「母郷」よりも、よりなつかしい「ふるさと」という言葉が相応しいと思う今日この頃である。

 

 


2014年1月号 (187)

がもろ()

栗 田 やすし 

 伊吹嶺の鍛錬会が知多で行われて、久しぶりに鵜の山を吟行した。鵜の山は全国でも数少ない川鵜の群棲地であるが、昔に比べて鵜の数が激減して、周辺の眺めも一変していた。かつては池を取り巻く小高い丘は木々だけでなく山肌までも鵜の糞で白く染まり、枯枝という枯枝におびただしい数の鵜が黒い斑点のように休んでいたのである。当時は鵜の生息数は一万羽以上、群棲地の面積も十二ヘクタールにおよんでいた。

 昭和三十四年に冬の鵜の山を訪れた村上冬燕氏は

  枯れはげし鵜の山を鵜が鳴き枯らし

と詠んでおり、昭五十六年には名古屋「風」句会十周年記念知多吟行会に沢木先生をお招きしたが、その時はすでに鵜の群れは少し離れた東北の雑木山に移っていた。が、まだ鵜の数も多く、先生は双眼鏡で熱心に鵜を観察されて

  苗代の水ひゞかせて鵜の鋭声

  乗り出して鵜の仔ついばむ松の芯

などと詠まれている。

 昭和四十三年、当時勤務していたK工業高校の同僚に、碧梧桐の句碑の句で「ガモロネ」の意味が分からないといきなり言われて面食らったことがある。

 句碑は、鵜の山の中ほどの池の西北隅に立っている、

  鵜の()(モロ)とも巣立つがもろ()

である。この句は所謂ルビ俳句で、「鵜の() (モロ)とも 巣立つが もろ()」と切って読めば、巣立ちが近い鵜の雛がたくさんいて、それらが「(モロ)()」、つまり、一斉に鳴いているという情景を詠んだものと解することができる。

 今回の鍛錬会でも意味不明という声を聞いた。人騒がせな句ではある。

 
 



2013年12月号 (186)
 処 女 作  
                       
栗田 やすし

 
私は自註句集『栗田やすし集』(平成11 俳人協会刊)の巻頭句
  
青芝の議論のあとの独りかな   昭和三三年作
の自註に「大学の芝生で、わたしたちはよく議論した。石原慎太郎の『太陽の季節』で始まり、六十年安保闘争で終わる学生生活であった」と記した。
 先日、丹羽康碩さんが一枚のノートのコピーをくれた。
 それは学生時代に櫻井幹郎(青雪)さんを中心に丹羽さんや清水さんらが活躍していた俳句サークルの謄写版刷り会報「阿寒のつどい」5号(昭和33・3・26日発行)の一五頁と一六頁のコピーであった。
 そこにはわたしの〈青芝の…〉の句の他に〈
春灯に独り煙の輪を描き〉〈春光のはねあそびゐる山路かな〉他二句が掲載されており、その後に、
 
青雪、草笛諸兄にすすめられ俳句を始めて一か月、三月の句会の三句がそもそもの作りはじめ、全くの初心者です。やすしは名前の靖からとったもの…
と付記している。
 一六頁は「三月定例句会」報で、三月二日午後一時より岐阜公園白華庵、出席者一三名、投句のみ三名とある。この中に私の〈
朝刊をかすめる春の鳥の影〉の句が記されている。
 この句は、青雪さんに階段教室の最上段での受講中に俳句を勧められてその場で作った俳句である。まさに処女作である。実はこの時、たまたま啄木の短編「鳥影」を読んでいたのである。
 今から五十何年も前のことが鮮明に思い出されて懐かしいが、ふと子規や碧梧桐らの句会稿を読んでいる時と同じ感動を覚えたのは意外であった。

 



2013年11月号 (185)

 常識というコレステロール                
                       栗田 やすし

 
もう三十年余も前のことになるが、三島に転勤すると決まったとき、友人たちは三島に行けば毎日のように富士山が眺められてうらやましいと言った。私もそれを何よりもうれしいと思った。しかし、三島に住んでみると、雨の日は無論であるが、晴れた日もなかなか富士山はその美しい姿を見せてくれなかった。
 三島に住んでいる人たちにとってこんなことは常識であって何も驚くことでもなく、また富士山が姿を見せたところで今さら格別感動することもない様子であった。
 漱石の「彼岸過迄」の中に「いくら勇気があったって、常識のない奴だと思われるだけだから」という言葉がある。誰だって「常識のない奴」と決めつけられる事は好まない。
 ところが、世に言う常識はしばしばわれわれの感性を鈍らせ、物の本質を見誤らせることがある。常識欠如もいただけないが、何もかも常識でしか物を見、あるいは考えなくなってしまうのは恐ろしいことである。
 富士山は天気が良くても雲がかかってなかなかその姿を見せないということは三島に住む人たちにとっては常識である。それゆえ、富士山が見えなくても、がっかりすることもないし、見えたからといって取り立てて感動することもない。富士山が見えようが見えまいが何も驚くことではなのである。
 真の詩人は、眼前の美しさ、あたらしさにハッとせずにはいられない心、驚く心を持ち続けることの大切さを説いている。
 常識は言わばコレステロールのようなもの。われわれはもっと常識というコレステロールに神経質になる必要があるのではなかろうか。



2013年10月号 (184)

 句集『初電話』                
                       栗田 やすし

 
丹羽康碩さんの待望久しかった第一句集『初電話』が伊吹嶺叢書第四十三篇として出版された。
 私は学生時代櫻井幹郎さんに誘われて、清水弓月さんや丹羽さんと俳句を始め、卒業後は「風」に入会し、丹羽さんを良きライバルとして毎月送られてくる「風」を楽しみにしていたが、その後、丹羽さんとは『虚子全集』(毎日新聞刊)や『誓子全集』(明治書院刊)の編集作業の手伝いなどを通して繋がりはあったものの実作では無縁となっていた。
 平成十五年、伊吹嶺の五周年を前に俳句への復活を決意した丹羽さんを伊吹嶺の同人として迎えたことは、大変有難く心強いことであった。
 この度の句集『初電話』の出版は丹羽さんの新しい決意の証である。
 句集名「初電話」は本句集に収められている、
  何といふことなく母の初電話
から採ったものである。本句集全体に流れる丹羽さんの肉親、特に老母への優しい思い遣りと、ほのぼのとした心の交流を象徴していると思ったからである。
 本句集に収められている作品については清水さんが「跋」で懇切丁寧な鑑賞をされている。その中で、康碩俳句は、「風」と「伊吹嶺」を通して磨いてきた確実な写生力を指摘したもので、
  漉きあげし紙吐き出せり寒の水
  飾り馬胴震ひして凍土蹴る

などを揚げて、「対象の把握が精密で繊細を極めている」と評価し、最後に『初電話』出版に続いて、これまで書いてきた鑑賞文や評論文を一本に纏めることを願って止まないと結んでいる。



2013年9月号 (183)

 句集『白絣』                
                       栗田 やすし

 山本悦子さんが喜寿を記念して句集『白絣』(伊吹嶺叢書第四十二篇)を出版された。本句集は悦子さんが「風」に入会された昭和六十三年から今日までのほぼ二十五年間に「風」と「伊吹嶺」に掲載された一千余句の中から二百八十句を精選して一冊にまとめたものである。
 すでに悦子さんには御主人との作品集『海外俳句集 悠』(豊文選書ⅲ 平16・3)が出版されている。これはご主人の海外の風景写真と、悦子さんの海外詠との合作による「写俳集」とでも言うべきもので、私は、序で、「
誰もがこの一書に収められた悠久の美の世界に魅せられるであろう」と評している。
 『白絣』には巻頭の
  
九頭竜のうねり春雷とどろけり
  越後湯沢露けき月をあげにけり

など全体の七割強が旅吟であり、その内のほぼ三割が、
  
ベネチアの石の獄舎や鳩交る
  天山の新雪仰ぎパオを解く

と言った海外詠であることは本句集の際立つ特色として挙げることが出来る。
 海外取材旅行をともにされたご主人が平成二十一年に脳梗塞を発病された。
  
リハビリの毬ころげ落つ春隣
以来悦子さんの献身的な介護の日々であるが、悦子さんにとって俳句は「
生活の癒しであり、こころのよすが」であるという。
 これからも良き山の仲間、良き俳句の仲間に囲まれて、俳句を生の証として作り続けて行かれることを期待したい。                
                         

 


2013年8月号 (182)

 日本の言葉                 
                         栗田 やすし
 

 私たちはよく吟行に出かける。そこで見聞きした事物から受けた感動を俳句にするには感動した物や事を現すのにふさわしい言葉探しが必要となる。
 感動した対象が「もの」であれば、そのものの有りようを正確に伝える言葉が必要となる。たとえば、そのものが鵜であれば、その鵜のどんな有りように感動したかを、つまり、感動の中心はどこにあるかをしっかり自覚することが大切である。
 かつて綾子先生が小瀬鵜飼を御覧になって
  疲れ鵜の漆黒を大抱へにし
と詠まれた。「疲れ鵜」とは鵜飼を終えて疲れ切った鵜のことで、その疲れ鵜を鵜匠が抱えている様子を詠んだものである。漆黒と言えば「漆黒の闇」というのが常套的な使い方である。しかし、先生は篝火に照らされているずぶ濡れの鵜を実感として「漆黒」という言葉で捉えられたのである。さらに、単に「抱へにし」ではなく「大抱へにし」としたことで、鵜匠が疲れ鵜を労るように大きく抱えている様子を表現されたのである。
 句集『和語』の「あとがき」で綾子先生は、
   今日この頃日本の言葉の美しさに向き直るような気持ちでいる。日本の言葉は日本の美しい自然とそこに生活して来た人間にとって生まれ伝わってきたものである。〔略〕俳句は日本の言葉でしか言いあらわせない最たるものである。この最たるもの、俳句の上であったればこそ思い知らされることが多かったのだと思っている。
と書いておられる。




2013年7月号 (181)

 即物具象                 
                         栗田 やすし
 

 伊吹嶺の俳句は即物具象の俳句であることはこれまでも何度も説いて来ましたが、どうも即物具象の俳句というものを実感としてつかめないという声をよく聞きます。実感としてつかめないと真剣に考える人はつかもうと努力している人と言うことが出来ますが、即物具象なんて面白くないとして、感動をナマのまま、短文の切れ端のような俳句を作っているとすれば問題です。
 俳句は文学の中でもかなり特殊な性質を持ったものですから、俳句の基本はいったい何であるかを、いつでも考えておかなければなりません。
 俳句が定型詩であり、季語が一句の中で生きて働いていなければならないのは基本中の基本ですが、私たちが最も大切に考えなければならないのは物に即して感動を詠む写生、つまり即物具象の写生による俳句です。
 沢木先生は「瞬間の感動が最も大切である。」「感動のないところに写生と言うことは有り得ない」として、「『感動』を『物』を核として結晶させるのが即物であり、結晶した感動を『物』を通すことによって定着させるのが具体化である」と説いておられます。
 これを具体的に見れば、
  卒園の花道桜草あふれ    美智子
 幼稚園の卒園式です。桜草で飾られた花道がいかにも幼稚園らしくて可愛らしい。園児はもとより関係者一同の喜びを、作者は〈桜草あふれ〉と確かな物に結晶させているのです。つまり、即物具象の写生句と言うことが出来るのです。
 私たちは、厳しい道ですが、沢木先生の説かれた俳句の基本である「即物具象の写生句」を地道に追究していく努力を怠ってはならないのです。


 



2013年6月号 (180)

 句集『妻の手』                  
                         栗田 やすし
 

 静岡の同人中村修一郎氏が米寿を記念して句集『妻の手』を出版された。
 句集の題名『妻の手』は修一郎氏ご自身の命名で、句集に収められている、
  点滴の妻の手温し日の短か
の句に因んで付けられたものである。〈点滴の妻の手温し〉の〈手温し〉には奥様の命への愛おしみがこめられていて、季語「日短か」によって読む者の心を切なく打つのである。
 本句集には、
  黒き穂のことに艶めく登呂の秋
  囮屋が生簀つくろふ夏はじめ
  一位の実土壁厚き一茶の居
  三線の恋歌涼し島の路地

など物に即して写生した佳句が多い。
 そうした中で
  特攻の割腹の遺書春かなし
の句は、かつて海軍航空隊員であった氏の格別の感慨を詠んだものとして注目すべきであろう。
 修一郎氏は、「高齢者の仲間ではあるが、まだまだ働き盛りと自覚し、心をこめて俳句を学んでいきたい。」との心境をもらしておられる。
 本句集の出版を機に、働き盛りの気概を持って健康に留意され、大いに句作されることを期待したい。

  


2013年5月号 (179)

 合同句集『IBUKINET』                  
                         栗田 やすし
  

「伊吹嶺」を創刊して15年の節目の年にインターネットの皆さんの合同句集『IBUKINET』(49名、各10句)が刊行された。

 この合同句集は「伊吹嶺」創刊とともにインターネット部を発足させ、「ホームページを開設して以来、ネット上での句会として「いぶきネット句会」を立ち上げ、その100回を記念し、「伊吹嶺」15周年に合わせての刊行である。

 この句集はこれまでの製本された一般の句集と違って、PDF作成によるネット配信が可能なウェブ句集としての刊行で、インターネット時代に即した句集となっている。

 「伊吹嶺」創刊時に、やがては俳句界にもインターネットの時代が来るであろうとは予想したが、インターネット部長の国枝隆生氏をはじめ、部員の皆さんの弛まぬ努力と、それに積極的に参加された会員の皆さんの熱意によって合同句集刊行という一つの実りをみたわけで、誠に喜ばしいことである。

 今、こうして合同句集『IBUKINET』として一つの確かな実りを目の前にして、これからの5年、10年先を、地球規模の視野で予測し、実行に移すことがこれまで以上に大切なことであるとの思いを強くする。

 「伊吹嶺HP」と、俳誌「伊吹嶺」とは車の両輪であり,お互いの長所を生かしつつ、今後とも「即物具象の写生俳句をめざすとともに、日本の伝統詩としての俳句を若い世代に伝える」という「伊吹嶺」の基本理念を確認しつつ、成長発展することを期待したいものである。

 




2013年4月号 (178)

 句会間の交流                  
                         栗田 やすし
 
 
伊吹嶺も十五周年を迎えて、中部・関東地区を中心に句会が六十余となり、それぞれが指導者を中心に熱心に研鑽を積んでいることは頼もしい限りある。

 沢木先生は、「俳句に写生の態度・方法が大切なこと、即物具象を重んじるのは要するに自己の小主観を離れて客観性を獲得するためである。」とされて、

  句会が大事なのはこの客観性を得る場であり、他者に自分の句を見てもらい理解を求めることにほかならない。誰でも経験するところだが、自分で肩を張って力んでいるような作品は他人の理解を得られない場合が多い。まだ作品が作者を離れて独り歩きしていないからであろう。句会に熱心に出席すれば、その呼吸を自然に会得することが出来る。

と説いておられる。

 自分ではこれが今日一番の句と思って投句した句を誰も取ってくれなかったという経験は誰しもあると思うが、これはまさに「自分で肩を張って力んでいる作品」だからであろう。

 客観性を得る場としての句会の重要性を考えるとき、私たちは自分たちの句会を大切にすることは無論であるが、自分たち以外の句会との交流を盛んにすることによって、お互いに句会のレベルアップを図ることが大切である。

 また、自分が所属している句会以外の句会の仲間を快く迎え入れて共に学ぶ場とすることも必要であろう。これらのことが各自の、ひいては伊吹嶺全体のレベルアップに繋がることを忘れてはなるまい。





2013年3月号 (177)

 生の証として                  
                         栗田 やすし
 
 日清戦争に従軍し、帰国の途次船中で喀血し神戸病院に入院した子規は、退院後、須磨、松山で静養。東京に帰ってからは死ぬまで根岸の子規庵で病の床に臥せっていたのである。
 子規は明治三十一年十月の「ほとゝぎす」に「我に二十坪の小園あり」で始まる「小園の記」を書き、その中で、「
今小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ。余をして幾何か獄窓に呻吟するにまさると思はしむる者は此十歩の地と数種の芳葩があるがために外ならず」と書いている。
 子規は狭い天地に閉じ込められてしまったが、その狭い天地で数多くの句を作ったのである。
  
鳶見えて冬あたたかやガラス窓
  病牀ノウメキニ和シテ秋ノ蝉
(蝉は旧字の蝉です)
  
一八の白きを活けて達磨の絵
  鶏頭の十四五本もありぬべし
  絲瓜咲て痰のつまりし佛かな

 これ等はすべて病牀での吟である。つまり、子規庵は子規の唯一の俳句工房であった。
 私たちは子規と違って自由に何処へでも出かけて句作することができる。句材を求めて各地に吟行することが悪いというのではない。しかし、私たちはもっと自分と深く関わる場を俳句工房とすることで、自らの生の証としての俳句を作ることに力を注いでも良いのではなかろうか。



2013年2月号 (176)

碧梧桐の復権を願って
                     栗田 やすし

 碧梧桐に執して五十年、学部の卒論審査でこれからも碧梧桐に関心を持ち続けて行くことを宣言してしまったのは、ものの弾みであった。しかし、今から思えば才能も文才も乏しい私にとってこれが心の支えになってきたように思う。
 本格的に碧梧桐を調べようとすると、すでに子規や虚子には二,三種の全集が出版されていたが碧梧桐には全集はおろか選集もなかった。
 手始めに碧梧桐の著書と碧梧桐関係の雑誌・新聞の収集につとめた。著書は古書目録と古書店巡りで集めたが、ずっと手に入らなかった句集『八年間』を古書目録で見つけたときの興奮は今も忘れられない。新聞「日本」の「日本俳句」や「小日本」等は国会図書館や東大の新聞雑誌文庫で閲覧し複写した。
 碧梧桐が第三高等中学に在学中の校友会誌「壬辰会雑誌」と「学籍簿」を京大図書館の地下のロッカーで見つけたのも懐かしい思い出である。
 しかし、何と言っても碧梧桐関係の資料、特に碧梧桐の塩谷鵜平宛て書翰を氏のご長男に快く見せていただけたことは有難いことであった。
 これらの資料を使って『碧梧桐関係俳誌総目録』『河東碧梧桐の基礎的研究』『碧梧桐俳句集』(岩波文庫)、それに今回の『碧梧桐百句』をまとめることが出来たのは幸いであった。
 この度、『碧梧桐百句』をお送りした日大の恩師笠原伸夫先生から「
河東碧梧桐の基礎から普及まで一身を賭してのご努力、まことに──といいたくなる気分」とのお便りをいただいたのは身にしみて有難いことであった。
 忘れられた俳人河東碧梧桐の復権を願っての五十年であったが、近年、少しではあるがその兆しが見えはじめたことはうれしいことである。
 



2013年1月号 (175)

「伊吹嶺」十五年に思う
                     栗田 やすし

 「伊吹嶺」はこの一月で満十五年を迎えた。創刊は平成十年一月である。創刊号で私は
「『伊吹嶺』は〃俳句における文芸性の確立〃を念願して創刊された『風』の理念を基本に据え、即物具象の俳句をめざすとともに、日本の伝統詩としての俳句を若い世代に正しく伝えることをめざす。」と書いた。私たちはこの目標を見失うことのないよう、事ある毎に反芻し、初心に帰り、句作に励んできた。この基本理念はこれからも変わることは無い。
 この十五年間に会員数は五百名を越え、会員の個人句集(伊吹嶺叢書)を三十九冊、十周年には合同句集『伊吹嶺 俳句集』(出句392名)を出版、また、この十五周年を記念して『季寄せ』を出版し、着実に成果を挙げ得たことは、ひとえに会員一同の日頃の精進の賜である。
 伊吹嶺は創刊当初より、インターネットに力を注ぎ、H・P開設誌として充実を計ってきたが、十五周年を期して「H・P併設誌」として更なる進化をめざし、また、国際部を中心に、世界中の人々と日本語で俳句を作る輪を広げることをめざしている。
 「伊吹嶺」の三周年記念号で、沢木先生は
「今までの古い伝統に基づいて、それをもっと新しく進め、視野を広くして思いきったこころみをして欲しいと思います」と励ましてくださった。
 先生のご期待に応えるにはまだまだ道遠しであるが、幸い会員一同意気軒昂、若い仲間も力をつけて来た。次の二十周年にどのような進化を遂げているか大いに楽しみである。




2012年12月号 (174)

『牡蠣飯』
                     栗田 やすし

 牡蛎のシーズンというのに生牡蠣でなく、「牡蛎飯の素」というもので炊いた牡蛎飯を食べた。これが結構美味しかった。残った分を翌朝チンで温めて食べた。これも炊きたてと変わらず美味しく食べることが出来た。
 碧梧桐に
  
牡蛎飯冷えたりいつもの細君
という句がある。折角の好物の牡蛎飯も冷えてしまったものを食べさせられる腹立たしさを詠んだものである。それにしても「いつもの細君」とは穏やかでない。
 茂枝夫人は青木月斗の妹で、碧梧桐に恋心を抱いて、兄月斗に懇願して碧梧桐と結婚したのだが、お嬢さん育ちで、和裁の腕は相当のものであったようだが、どうも家事や、人の執り成しは苦手であったようだ。
 碧梧桐が茂枝夫人を詠んだ句に
  
妻に腹立たしダリヤに立てり
  子供に火燵してやれさういふな

がある。子供は養女美矢子。月斗の三女。碧梧桐はこの美矢子を溺愛したが、十六歳で病没している。美矢子は茂枝夫人と反りが合わなかった。
 話を牡蛎飯にもどすが、牡蛎飯を食べながら〈牡蛎飯冷えたり‥〉の句を荊妻に話すと、
 「電子レンジがなかったからかわいそう」
と言って茂枝夫人に同情した。


2012年11月号 (173)

『即物具象の写生俳句』
                     栗田 やすし

 「即物」は俳句の基本中の基本です。伊吹嶺の俳句は、この「即物」を無視しては成り立たないと言っても過言ではないのです。
 即物具象の写生俳句とは「説明を避け、物に感動を託して表出する」ということです。
 具体的に沢木先生の句で見てみましょう。

  
麦秋の息かけ磨く管楽器

 季語「麦秋」と「管楽器」の取り合わせで出来た句です。この句のポイントは〈息かけ磨く〉です。これによって、季語の「麦秋」は動かないものとなります。〈息かけ磨く〉を「梅雨」などという季語を使うことはできないでしょう。

  
冬の雨しみの拡がる土の壁

 「冬の雨」と「(土の)壁」との取り合わせ、ここでは〈しみの拡がり〉がポイント、確かな写生となっています。地味ですが、ほんとうにしみじみとした情感が伝わってきます。それは、〈しみの拡がる〉ということばが、この土壁の状態をしっかり把握しているからです。
(やすし俳句教室『実作への手引』より一部抜粋)





2012年10月号 (172)

『俳句 in 沖縄』
                     栗田 やすし

 八月二十四日早朝、中部国際空港から沖縄那覇空港に向けて飛び立った。
 今回の沖縄行は、「第10回俳句in沖縄」に招待されたもので、日程は一日目(二十四日)は、ワゴン吟行と、ウエルカムパーティー。翌日は、俳句ボクシング・講演、俳句デイべート、表彰式、交流・親睦会が企画されていた。が、台風接近のため、急遽二十四日中に短縮しての強行日程となり、私の講演も一日繰り上げて行われ、すべての行事が終ったのは夜九時近くなっていた。
 「俳句in沖縄」は三浦加代子氏(「ウェーブ」「人」同人)が実行委員長で、井波未来さんを中心とする河東碧梧桐研究グループの皆さんが精力的に企画・運営されてきたもの。大会のメインは高校生による「俳句デイべート」である。この大会には開成高校(東京)と松山東高校が招待されていたが、両校は今年の松山での俳句甲子園で決勝戦を戦っており、沖縄戦を勝ち抜いてきた地元沖縄の高校チームと戦い、決勝戦で開成高校が、松山での雪辱を果たして優勝した。
 かつて大学で行っていたクラス対抗のデイべートに担任として関わっていたが、それとは趣を異にしていたが、高校生らしい爽やかな論戦であった。
 三浦氏とは「俳句文学館紀要」が縁で親しくさせていただいているが、私財で図書館「にぬふぁ星」を建設し、碧梧桐関係を中心に多くの資料蒐集されており、碧梧桐に長年関わってきた私にとっては大変心強い同志?である。ちなみに、三浦氏はナマコの研究者でもあり、この夏、『美ら海歳時記シリーズ なまこ歳時記―樹手目編』〈にぬふぁ星図書館〉を刊行されたばかりである。
 大型台風大接近で、航空チケットが取れず、かろうじて二十六日午後五時三十分発の関西空港行きのチケットを得て、辛くも深夜帰宅出来たのは幸いであった。




2012年9月号 (171)

『旅情』
                     栗田 やすし

高島由也子さんが医業の傍ら精力的に世界各国を旅して撮ってこられた風景写真と、平成十年に伊吹嶺に入会されて以来の俳句作品をまとめて、海外写俳集『旅情』を出版された。
 由也子さんが世界各国で得た感動を逃すことなく撮影された作品は膨大な数と想像されるが、それらの中から四〇点を厳選し、それぞれに俳句三句を添えられたことによって、これらの国をまだ訪れたことのない人だけでなく、すでに訪れたことのある人にとっても新鮮な感動を与えてくれる一書となった。
 写真については全くの素人である私にとってはただ感動するばかりで、評する資格はないものの、私が羨望をこめて愛唱する俳句は
  
テント張る砂漠の果ての大落暉(ナミビア)
  死海より昇る初日を拝しけり(イスラエル)
  ヤク追つて走る少女や風光る(中国)
  日本兵抑留の地の土凍てり(ウズベキスタン)
  天地を響かせ氷河崩れ落つ(アルゼンチン・チリ)

など多い。
 片山浮葉氏は跋文の中で〈日本兵・・〉の句に触れて「極寒の地に永眠した抑留兵士を悼む鎮魂の思いが哀切極まりないです。」と、また、〈天地を・・〉の句については「温暖化のせいか、氷河が大音響をたてて崩落する凄まじさ、氷河の状況が想像できます。」との感想を記されている。
 この海外写俳集『旅情』が、地球規模で俳句が親しまれることを願う私たちにとって励ましの書となることを確信します。




2012年8月号 (170)

つゆむらさき
                     栗田 やすし

今年の五月、沖縄の「イッペー句会」に出かけたおり、午前中、手登根さんと平さんに案内されて大里村の「みどり農園」を吟行した。可憐な河原なでしこが咲き、白蝶がハーブの香に誘われて舞い、雪加、老鶯が頻りに鳴いていた。
 手登根さんが、園の中ほどにある柵に逞しく絡む艶やかな蔓の青葉の先を三センチほど摘んで、これを名古屋に持ち帰って植えれば、ちゃんと根付いて大きくなるよと言って手渡してくれた。受け取ったのは葉っぱが四枚ほどついているだけの蔓葉である。それを水に湿らすこともしない薄紙に包んで、翌日帰宅して、半信半疑で鉢に差しておいた。
 その後、水遣りはしたとは言え、一向に萎れることなく、三週間ほどして蔓が伸びてきたのには驚いた。慌てて支柱を立てたが、今ではすっかり支柱に蔓を絡ませている。こんなにも生命力が強い蔓草には驚きである。
 インターネットで「沖縄蔓むらさき」で検索したら「沖縄の島野菜のひとつ、ジュビンと呼ばれるツルムラサキは、色が奇麗なツル性の島野菜です。少し湯がいてお浸しにするとねばりがでて美味しいですよ。」とあり、「カロチン、ミネラルいっぱい元気野菜」とある。
 わが家の庭が数年前から夏になると雑草園と化したので、昨秋、思いきって庭隅の畑もつぶして一面に砂利を敷いてしまった。そこで、今年はプランターでゴーヤとプチトマトを栽培しているが、いずれもすでに小さな実をたくさんつけている。
 後期高齢者の仲間入りしたわたしも、今年の夏は、沖縄野菜を食べて、皆さんと約束したように二十歳差し引いた五十代の意気込みで元気にもりもり動こうと思っている。




2012年8月号 (170)

つゆむらさき
                     栗田 やすし

今年の五月、沖縄の「イッペー句会」に出かけたおり、午前中、手登根さんと平さんに案内されて大里村の「みどり農園」を吟行した。可憐な河原なでしこが咲き、白蝶がハーブの香に誘われて舞い、雪加、老鶯が頻りに鳴いていた。
 手登根さんが、園の中ほどにある柵に逞しく絡む艶やかな蔓の青葉の先を三センチほど摘んで、これを名古屋に持ち帰って植えれば、ちゃんと根付いて大きくなるよと言って手渡してくれた。受け取ったのは葉っぱが四枚ほどついているだけの蔓葉である。それを水に湿らすこともしない薄紙に包んで、翌日帰宅して、半信半疑で鉢に差しておいた。
 その後、水遣りはしたとは言え、一向に萎れることなく、三週間ほどして蔓が伸びてきたのには驚いた。慌てて支柱を立てたが、今ではすっかり支柱に蔓を絡ませている。こんなにも生命力が強い蔓草には驚きである。
 インターネットで「沖縄蔓むらさき」で検索したら「沖縄の島野菜のひとつ、ジュビンと呼ばれるツルムラサキは、色が奇麗なツル性の島野菜です。少し湯がいてお浸しにするとねばりがでて美味しいですよ。」とあり、「カロチン、ミネラルいっぱい元気野菜」とある。
 わが家の庭が数年前から夏になると雑草園と化したので、昨秋、思いきって庭隅の畑もつぶして一面に砂利を敷いてしまった。そこで、今年はプランターでゴーヤとプチトマトを栽培しているが、いずれもすでに小さな実をたくさんつけている。
 後期高齢者の仲間入りしたわたしも、今年の夏は、沖縄野菜を食べて、皆さんと約束したように二十歳差し引いた五十代の意気込みで元気にもりもり動こうと思っている。




2012年7月号 (169)

「詩的感動」
                     栗田 やすし
芭蕉の言葉として
 
物のみへたる光、いまだ心にきへざる中にいひとむべし(三冊子)
はよく知られている言葉です。対象に接して得た感動が心の中に残っているうちに、とにかく句の形に言い止めてしまうのがいいというのです。
 俳句は短い詩ですから瞬間の感動が最も大切です。その感動「ああ」をどうすれば句の形に言い止めることができるかということになります。
 私達は「即物具象の写生」を作句法の基本に据えています。森羅万象のあらゆる物と事に触れて起きた感動をそのままナマのまま表すのではなく物に即して表す、言葉を変えていえば、形をなさない「ああ」という感動を形のある物を通して定着させる。物に感動を託す。つまり具象化と言うことです。
 問題は、感動の質です。常識的な感動からは詩は生まれません。現実そのままの感動と詩的感動は質を異にしているのです。沢木先生は常々「詩となる感動は美を中心にしたものである。」と説いておられました。
 根源俳句を説いた山口誓子は、現実そのままの感動というのは、作者の眼が観察の眼に止まっている段階の感動であるとし、こうした感動は十七音という短い詩型においては、
「俳句を題目に終らせ、断片に終らせる危険を蔵してゐる」と説いています。誓子は「作者の眼が観察でなく根源の探求になつて来なければならぬ」「これがなければ俳句は詩の題目にとどまり、文章の断片にとどまつてしまふ。」というのです。(「実作者の言葉」昭25・1 天狼)
 「物のみへたる光」とは、物の生命・根源にたいする感動、つまり、詩的感動と言うことになります。





2012年6月号 (168)

「フランス俳句会」
                     栗田 やすし

 「ふらんす俳句会」の『二〇一一年「ふらんす俳句会」自選句集』が牧はる子さんから送られてきた。「ふらんす俳句会」はパリ在住の日本人会の俳句会で、牧さんはその顧問である。
 自選句集には二十三名の厳選された俳句が十句ずつ収められている。
  
ひと打ちの拍子木響く寒の朝        高尾 良子
 寒中の朝の空気を引き裂くような拍子木の音。〈ひと打ち〉が効いている。
  
踏み入りて澄むせゝらぎや水の秋      牧 はる子
 澄みきったせせらぎに魅せられて思わず素足になって踏み入ったのであろう。「水の秋」を体験を通して感じとった感覚の句。
  
月光を吸ひて膨らむ青葡萄         ビュニャールしづ子
 葡萄園であろうか。無数の青葡萄の粒が月光を吸って膨らむと捉えた作者の感覚が新鮮で美しい。この詩的感覚は動かしがたい。
  
灰色に街並み沈む冬の朝          三浦  玲(玲子)
 街並みが〈灰色に沈む〉とは、冬のパリの空気を鋭敏な感覚で捉えたもの。
  
おしゃべりの終止符となる夏の雨      フォール・クリスチャン
 夏の雨といえば夕立をイメージする。急に降りだした雨がおしゃべりの終止符となったという。可愛いパリジェンヌのおしゃべりか。
 クリスチャンさんは日本語で句作に励んでいるフランスの男性。
 伊吹嶺がめざすのは、地球上の到るところで俳句が日本語で作られることである。「ふらんす俳句会」の皆さんとの交流を通して、多くを学び、一歩でも目標に向かって前進しなければと思う。





2012年5月号 (167)

「孤独力」
                     栗田 やすし

 皆さん、「便所メシ」という言葉を聞いたことがありますか。
 ひとりで食事をする姿を見られるのがイヤだし恥ずかしいからと、トイレでお昼の弁当を食べる若者がいて、それを「便所メシ」というのだそうです。
 この度、伊吹嶺の仲間の武長脩行氏が平凡社新書の一冊として『「友だちいない」は恥ずかしいのか―自己を取りもどす孤独力―』という本を出された。
 この本の中で、氏は、この話を聞いたときは本当に驚いたが、ひとりでいることは、けっして恥ずかしいことではないし、無理をして友達をいっぱいつくる必要はない。学食のテーブルで〃ひとりメシ〃を堂々と楽しんでいるほうが、いつもだれかの顔色をうかがったりしながらみんなとつるんでいるよりも、よっぽどカッコいいと書いておられます。
 多くの人は、孤独という言葉に、あまりいい印象を持っていませんが、氏は、孤独というのは、自由自在にふるまえ、無理しない自分にもどれる場所だとし、「孤独力」というのは、そこで、自分と向き合って、静かに自分の人生の目的や生きる意味を考え、「自分はこれでいいんだ」と確信が持てるようになる、そのようなことを可能にする力だと説いておられます。
 この本は、大学で直接若者に接している氏が、これから日本を支え、挫けずに、社会に出てひとりで強く生きられるように、「孤独力」を身につける必要性を伝えたいとの思いから書かれたとのことですが、皆さんもこれを読んで、もう一度自分の生き方を考えてみてはいかがでしょうか。
 著者の武長脩行氏は椙山女学園大学教授(保険学博士)で、著書に『孤独力のあるママが子どもを伸ばす』(主婦の友社)他があります。





2012年4月号 (166)
「夢」
                     栗田 やすし

 子規の「筆まかせ」の中に「夢の場所」という文章がある。長くはないのでその全文を引用する。
 余は夢に於てほんとうの場所を見たることなし、例へば東京か松山かどこか少しも分からぬ時もあり或は東京とか、駿河台とか一処にきまつてゐても 覚めて後考ふれば其夢中の駿河台は実際の駿河台と地理距離杯総べて変りゐる也 余は夢覚むる毎に常に之を思ふに 必ず実際とは異なりたる処を見るなり。誰も皆然るや否や
 子規は「誰も皆然るや否や」と問いかけている。皆さんはどうであろうか。
 私は毎晩のように夢を見るが、そう言われてみれば、夢の中で人に会ったり、ものを見たりした場所は、覚めてみるとそんな場所は現実にはなかったり、あったとしても夢の内容と場所とがどう考えても矛盾している場合の方が多い。
 話は変わるが、子供の頃よく見た夢は、遠足に遅刻しそうになったり、宿題を忘れて焦ったりする夢などであったが、今でも、この授業の単位を落とすと卒業が出来ないと狼狽えたり、試合を前にしてどうしても防具が着けられなくて焦る夢を見るから可笑しい。不思議なのは前に見た夢の続きを見ることがある。そんな時は大抵誰かに追っかけられているときである。
 夢ではいろんな人と話をする。今は亡き恩師であったり、級友であったりするが、やはり一番多いのは母の夢である。それも私の少年時代の母である。そんなとき夢から覚めてからもしばらくは母と話しているのである。
  覚めてなほ母と語れり春の夢



2012年3月号 (165)
「継続は力なり」
                     栗田 やすし

 私は事ある毎に「
大きな夢を持とう、夢を持ったら、その夢を目標とし、それに向かって努力しよう、そうすれば必ず夢は実現する 」と言い、「 その夢を実現させるためには、まず十年先を見据えた努力の継続が不可欠です 」と言って来ました。
 最近、伊吹嶺の仲間による合同句集がいくつか刊行されていますが、近々関東支部の合同句集第一号『炉火』が刊行の運びとなりました。合同句集はともに学ぶ仲間の努力の結晶です。これらの合同句集が第二第三の合同句集への一里塚となることを期待したいものです。
 顧みますと、伊吹嶺の前身は、昭和四十七年に発足した「風」愛知支部でした。発足と同時に片山浮葉氏と決めたことは、会報を毎月発行すること、隔年に合同句集『浮標』を刊行することでした。以来、平成十年に、「伊吹嶺」を創刊するまでの二十五年間、会報は一度の休刊もなく発行し続け、最終号に私は「
…支部の発展に会報の果たした役割がいかに大きいものがあったかを改めて思い知らされます。会報は、俳誌『伊吹嶺』として生まれ変わります。皆さんのご支援をお願いします 」と書いています。
 一方、隔年刊行を決めた『浮標』も着実に刊行し続け、平成十年の第十二号をもって最終号とし、以後は伊吹嶺会員の個人句集『伊吹嶺叢書』の刊行と決め、以後刊行を続けて現在第三十八篇となりました。
 今年は伊吹嶺創立十五周年の年。伊吹嶺がここまで発展することができたのは、歴代の編集長をはじめ各句会の編集委員さんの努力と、それを支えてくださった会員のみなさんの真面目な努力があったことを忘れることはできません。



2012年2月号 (164)

「遍路の心と姿」
                     栗田 やすし

沢木欣一先生に遍路体験の句がある。昭和五十四年三月二十八日、一番札所で遍路の装束に着替え、同夜、宿坊に一泊。翌三十日、十番切幡寺まで十里十箇所を歩かれて、
  
野に出でて鈴振るばかり偽遍路
  蝌蚪の陣金剛杖ではげませり
  げんげ田に沈みて遍路冥利かな

など三十句を詠んでおられる。「偽遍路」は先生のはにかみであろう。
 この度、石崎宗敏氏が父母追悼のため、六十四歳秋に発願し、足掛け六年、三十余日で結願した四国八十八箇所のお遍路体験を詠んだ句を中心に句集『徒遍路』を伊吹嶺叢書第三十八扁として上梓された。

  
笠押へ風に真向ふ遍路道
  後ろ影母に似てをり老遍路
  食膳に父の好みし木の芽和
  語り合ふ生国のこと遍路宿
  杖二寸減りて結願冬の虹


などの句を見てもわかるように、お遍路に全面的に身を入れて詠まれたもので、お遍路の心と姿の見える作品群となっている。
 氏は定年退職後、第二の人生のテーマを遍路と俳句と決めて本格的に取り組み、句歴七年目にして句集『徒遍路』として結晶させたのである。 

 
 



2012年1月号 (163)

「辰年に思う」

                                栗田 やすし

もうずいぶん昔の話だが荻原井泉水氏にお会いした折に「きみは若いから」とおっしゃって
  
の一字を長々と短冊いっぱいに書いてくださった。私はてっきり代表句(自由律俳句)を書いてくださるものと期待していたのでいささか拍子抜けしたのだが、今にして思えば何とも有難い励ましの一字であった。
 井泉水といえば
  棹さして月のただ中
の句が好きだ。この句は昭和二年の仲秋の夜、香取より小舟で鹿島まで行った折の句で、月夜に漕ぎ出した小舟はいま月のわたる真っただ中にいるというのだが、「棹さして」という簡潔な表現によって、きらきらする月光をわけて滑るように進む小舟の姿が鮮やかに目に浮かび、澄みきった作者の心が十二音という短律のうちに浮き彫りにされている。
 辰年を迎えるたびにこの短冊を壁に掛けて、今年は何をしたらよいか、何をすべきかを考える。
 私はこれまで十年先を見据えて目標を立て努力することを心掛けてきた。しかし、古稀を過ぎた今は、十年先を見据えるとしても、まず五年を区切りに努力しなければと思っている。
 昨年は、細見綾子先生との師弟句碑を作ってもらった。句碑の石は伊吹山麓の龍巌石である。
 今年は「伊吹嶺」創刊十五周年の年である。昇竜の年にしたいものである。
 



 



2011年12月号 (162)

「難語が読める」

                                   栗 田 やすし

 

 この度、「伊吹嶺」会員の市川悠遊(本名裕也)さんが『俳句用難読語表』(私家版・非売品)という冊子をまとめられた。これは、悠遊さんが俳句を始めるにあたって、俳句には、漢語、漢語の熟字訓、宛字、古語など読み方の難しい語句が多く使われていることが障害になったことから、「読み方を調べる労力を減らすため」に作ったものであるという。

 ちなみに、「難読語の読み方がすぐわかる」として三省堂より『難読語便覧』という小冊子が出されていて、見出し漢字の配列は、代表的な音訓の五十音順(巻末に部首別索引・総画索引を付す)となっているが、本冊子では視点を変えて総画索引順を基本とし、筆順の第一画により、「点」・「横画」・「縦画」・「左払い」(ノ)の四種類に分類し、その順に配列されている。例をあげると

 「艾」は5画で「横画」。「囮」は7画で「縦画」。「庵」は  画で「点画」といった具合である。具体的には

   画 横 「乾風」あなじ 【冬】(天文)《副季語》「あなぜ、あなし」

   画 点 「糗」はったい(広)→はったい(糗・麨) こうせん(香煎)

                   ※【 】は季語、(広)は広辞苑

と「読み」と、簡潔な「解説」が付されている。

 本表に収められている総漢字数は明示されてはいないが、ざっと三千五百語は収められている。

 悠遊さんがこの一冊を独力で完成されたことに驚嘆する。

 今後、この一冊を基盤とし、さらに漢字の追加、あるいは補正等によって、より完璧なものを目指して研鑽を積まれることを期待したい。


                                                         
 
2011年11月号 (161)

句集『独酌』                     栗 田 やすし

 
兼松秀さんが俳句の道に入られたのは、お兄さんが俳人(号・静泉)であったということもあって、伊吹嶺ネットからの平成十一年であった。
 秀さんは理髪店のご当主で、休日には畑仕事をされるなど多忙を極める中での句作のため、本句集には
  
インデアン水車が弾く秋の水
  金比羅の磴登りきり風涼し
  零戦のエンジンあらは冴返る

など吟行句はそう多くはない。
 
 大根引きつゝ足裏で穴塞ぐ
  父さんと嫁に呼ばれし花の夜
  空で嬰をあやして散髪す
  散髪の髪に匂へり野焼の香

 私の好きな句を挙げればきりがないが、秀さんの句は地味ではあるがしっかりと生活に根ざしたもので、そこには確かな俳人の感性を見ることが出来る。
 句集の題名は伊吹嶺賞受賞作「独酌二十句」に依るもので、
  
病む妻に襟直さるる秋日和
  身に入むや我を案ずる遺言書
  男手で喪服を畳む秋の夜
  独酌の鮟鱇鍋を噴きこぼす

など余命いくばくもなしと告げられた愛妻との交感が淡々と詠まれており、本句集の中核をなす作品群であり読む者の胸を打つ。

                                                         
 

2011年10月号 (160)

蕗の薹                     栗 田 やすし

  このたび国枝洋子さんの句集『蕗の薹』が「伊吹嶺叢書」の第三十六篇として上梓されることになった。まことに喜ばしいことである。
 洋子さんは草花への造詣が深く、一緒に吟行すれば仲間に積極的に草花の名前を教えてくださり、草花音痴の私など大いにその恩恵にあずかっている。
 「地獄の釜の蓋」とか「継子の尻ぬぐひ」といった珍しい季語の草花も実物を目の前にして教えてもらったことも懐かしい思い出である。
  白山の風ごと摘めり蕗の薹
は本句集の題名になった佳句である。〈風ごと摘めり〉に洋子さんの蕗の薹への思いがこめられている。その思いは、雪の白山から吹き下ろす冷たい風に耐え、雪の下から顔を出し、浅春の光りに育まれて膨らみはじめる蕗の薹への切ないまでの愛おしみである。
 こうした洋子さんの草花への愛おしみは一々例句を挙げるまでもなく、生きとし生けるもの全てに注がれる愛おしみでもある。
 このことは、洋子さんが自然豊かな仙台の地に生まれ、お母様の深い愛情に包まれて育ったことと深く関わっているのであろう。
 かつて洋子さんに随想「花鳥の風景」を「伊吹嶺」に連載して貰ったことがあったが、「紫苑」について文章の中で、細見綾子先生の
  山晴れが紫苑きるにもひゞくほど
の句をあげて、「綾子先生の紫苑を剪る音と、母の鋏の音が重なり、紫苑を見る度にこの句を思い、切ない思いと共に母の優しさがよみがえってくる。」と書いている。洋子さんにとっては紫苑だけではなく、あらゆる草花が母郷への思いを募らせるものなのであろう。

2011年9月号 (159)

綾子忌                     栗 田 やすし

  綾子先生の忌日は九月六日であるが、今年も九月七日(水)に「綾子忌吟行会」が名鉄犬山ホテル周辺を吟行地として行われる。綾子先生を偲んで有意義で楽しい吟行会になることを期待している。ところが、今では「伊吹嶺」の会員の半数以上が「風」の経験がなく、綾子先生にお目にかかったことがないというのが実情である。「風」の精神を引き継ぎ、沢木欣一・綾子両先生から授かったものを受け継いで行きたいと願う私たちにとって両先生と直接面識のない会員が増えたことはやむを得ないことではあるが残念である。
 それだけに私たちは両先生の俳論・作品を学ぶ機会を多く持ち、その教えを学ぶことが必要である。その意味からも、「綾子忌吟行会」は、単に俳句を作るというのではなく、この吟行会を機に改めて綾子先生の俳人としての偉大さと、その温情溢れるお人柄を伝え合う機会になればと願うのである。
 そこで、綾子忌に因んで、ここでは綾子先生に関する参考書の幾つかを挙げておく。
  堀古蝶『細見綾子聞き書き』(昭61・11 角川書店刊)
  杉橋陽一『剥落する青空―細見綾子論』(平3・8 白鳳社刊)
  栗田やすし「わが師、わが結社」(俳句文庫『細見綾子』 平4・4 春陽堂書店刊所収)
  沢木欣一『細見綾子俳句鑑賞』(平4・1 東京新聞出版局刊)
  林 徹『細見綾子秀句』(平12・9 翰林書房刊)
  下里美恵子『綾子先生輝いた日々』(平19・12 文学の森刊)




2011年8月号 (158)

薄墨桜                     栗 田 やすし

  能郷白山の薄墨桜は根尾谷にかかる吊り橋を渡り急な山道を少し登ると、山腹の小さな田に囲まれいて、近くに花守の家が一軒ひっそりと建っているだけであった。
 この薄墨桜を綾子先生が訪ねられたのは昭和五十二年の春で、
  
老桜落花は己が身にふりて
  花守のてのひらほどの春田かな
  老桜の裾わめぐりて春田水

ほか三句を詠んでおられる。
 ところが、その後、薄墨桜が観光ブームにのって公園として整備され、何本もの薄墨桜の子や孫が植えられて、今では土産物屋が並び、何とも俗な情けない観光地となっている。このことは薄墨桜だけでなく、日本の至る処で同じ事が行われていると言っても過言ではあるまい。
 朝日カルチャーセンター俳句教室の仲間と薄墨桜を吟行したのは今から七年前のことで、帰りがけに、三〇センチほどの薄墨桜の苗木を一本買って帰り、わが家の庭に植えた。花が咲いたら皆で花見をしようとそのとき皆と約束した。
 ところが、その苗木が五メートルほどの若木になったが、今もって一輪の花も咲かせない。そこで信頼のおける庭師にわが家の薄墨桜を見てもらうと、確かに薄墨桜には違いないが、これは実生の苗だから花は咲かないと言う。
 咲かない桜苗と分かっていて売るとは何とも情けない根性だと腹を立てても今さらどうしようもなく、花見を楽しみにして待っていてくれた仲間には申し訳ないが、思い切ってばっさり伐ることにした。痛恨の極みである。


2011年7月号 (157)
 

 竜天に登る                      栗 田 やすし

 「伊吹嶺」創刊十五周年記念行事の一つとして名鉄犬山ホテルの庭園内に句碑を立ててもらった。私にとって句碑などおよそ縁のないもの、不相応なものとして辞退したが、綾子先生との師弟句碑として提案されて、それが多くの皆さんの熱意で実現したのである。生涯あり得ないことが実現したことに身の引き締まる思いであり、改めて皆さんの熱い思いに感謝の気持ちで一杯である。

 ところで、句碑の石は、伊吹山山麓で採取された春日青石で、龍巌石とも言う貴重な石なのだそうだ。

 句碑除幕式の当日は朝から曇天ではあったが、除幕の直前になって俄にどしゃ降りとなった。が、その後、すぐに止んでしまった。まさに龍が昇天する霊気を感じさせるものであった。

 季語に「竜天に登る」というのがある。空想の産物で、「鷹化して鳩と成る」などと共に難しい季語で、角川書店の『図説俳句大歳時記』(昭48)・『角川俳句歳時記』(平18)の春の部に「鷹化して鳩と成る」の次ぎに「竜天に登る」として入っている。因みに、虚子編『新歳時記』(昭9)、明治書院『新撰俳句歳時記』(51)などには入っていない。

 季語「竜天に登る」は『図説…』の解説によれば、「説文に『竜は鱗虫の長、能く幽、能く明、能く細、能く巨、能く短、能く長、春分に天に登り、秋分にして淵に潜む』とある」とし、「春の盛んな気に乗じて昇天すると信じられていた」と記す。例句として〈竜天に登ると見えて沖暗し 伊藤松宇〉〈竜天に黄帝の御衣翻へる 石井露月〉〈竜天に登るはなしを二度三度 宇多喜代子〉などを挙げている。

 この際、季語「竜天に登る』に挑戦してみてはどうであろうか。



2011年6月号 (156)
 

 素振り                        栗 田 やすし

 若い頃、新任校の教員仲間とスキーをした。二学期の終了式を済ませたあと、夜の懇親会もそこそこに、その足で名古屋駅に向かい、信州行きの列車の改札を待ってコンコースに座り込んだものである。

 二、三年、がむしゃらに滑って、なんとか滑れるようになったが、大学でスキー部だったという同僚のスマートな滑降とはほど遠い我流の滑りであった。

 別に選手になるわけでもないし、楽しければそれでよかったのだが、今から考えれば、矢張りきちんと基本を習っておくべきだったと思っている。

 基本と言えば、野球ではバットの素振り、テニスや卓球ではラケットの素振りであるが、いずれも基本の型をしっかり身につけるためである。素振りは何も初心者だけのものではない。ベテランも素振りによって、微妙な型の崩れを矯正するのである。これは私が学生時代に熱中した剣道でも同じで、道場でも家でも竹刀の素振りを繰り返したものである。

 俳句で素振りに相当するのが写生であろう。基本の写生がしっかり出来ていなければ句境の深化などおぼつかない。

 仲間と同じような俳句しかできないからといって、写生を疎かにした俳句で奇を衒うのは、その時点で深化も発展も放棄したのも同然である。

 名古屋市美術館でゴッホ展を観てきたが、ゴッホが如何に基本のデッサンを大切にしたかを目の当たりにしてあらためて基本の大切さを痛感させられた。

 確かな写生力を身につければ俳句の目と心が養われ、自ずと個性は滲み出てくるものである。

 いつまでも個性が滲み出てこないとすれば、俳句の基本である写生を疎かにしているからであろう。


2011年5月号 (155)
 


 お見舞は義援金として                栗 田 やすし


 仙台の近藤文子さんからお便りをいただきましたので以下、全文を紹介いたします。
       *****       *****       *****
 ご健勝のこととお慶び申し上げます。
 今度の大地震に際して、多大のご心配をおかけし、恐縮しております。
 あの日は、仙台文学館での句会に出席し、ちょうど終わったところでした。はじめに体がドンと突き上げられた感じで、何が起こったのか見当がつきませんでした。次の激しい横揺れで地震だとわかり、句友もみんな机の下にもぐり込みました。机の脚にしがみつくのが精一杯で、声も出ません。ずいぶん長い時間に感じました。
 鎮まって外に飛び出すと、文学館の崖が崩れて、道を埋めています。仲間の車に乗せていただいて、わが家にたどり着き、命拾いをしました。
 家は、本棚・戸棚・仏壇がごちゃごちゃ、冷蔵庫・洗濯機は横に動いていて、主人が本の下敷きになっていなかったのが不思議なくらいでした。
 その夜、暗闇の中で、「若林区の海岸におびただしい犠牲者。」というニュースを聞きました。が、三日後電気が復旧してテレビを見るまで、津波がどれほど激甚であったのか、実感できずにいました。すさまじいものでした。今なお、近くの中学の体育館には、家をなくし身内を失った人々が大勢寝泊まりしています。津波に呑まれた人の話を、身近に聞きます。
 それに比べてわが家は、幸いにも家にいて、鍋釜で食事を作り、のんびりテレビを見たりしています。ガスが来なくて風呂には入れないくらいで、愚痴をこぼしてはいられない気持ちになります。
 そこへ過分のお見舞い金─。本当にありがとうございました。ただ、私などがこれほどのお見舞いをいただくのは、どう考えても申し訳がないのです。
 そこで、お見舞いは確かに私が、ありがたくいただきます。いただいたうえで、私どもよりもはるかにご苦労なさっているこの地の皆さんへ義援金として、これを役立たせていただきたいと考えます。お心に反するかと思いますが、どうかこの旨、ご了承のほど、よろしくお願いいたします。
  
   四月吉日
                                   近 藤 文 子
 伊吹嶺俳句会 各位


2011年4月号 (154)
 

 五右衛門風呂                        栗 田 やすし

 久居の中山ユキさんを見舞った帰りに松阪に行き、本居宣長の旧宅「鈴屋」に立ち寄った。二階の書斎は外の高みから覗くだけだが、一階の通し土間には入ることができ、その中ほどに五右衛門風呂がある。かまどの上に鉄釜を据え、下から火を焚いて直接に沸かす据風呂である。この五右衛門風呂に私は小学生の頃、母の里で兄と入ったことがある。母の里は漢方薬を売っていた。今も帳場の奥に抽斗がいっぱいある大きな薬箪笥があったのが目に浮かぶ。五右衛門風呂はやはり薄暗い通し土間の奥にあった。裸になって、さあ入ろうとすると水面に丸い板が浮かんでいるのに驚いた。蓋板かと思ったがそれは底板で、入浴の時にはこれを踏んで下に沈め、その上にのって入るのだと知らされたが、うっかりすると底板が浮かんできそうで落ち着かなかった。
 この五右衛門風呂の話をしたら、私と同年配かそれ以上の人は誰もが体験しており、懐かしくて話が弾んだが、据風呂の様式は少しずつ異なっていた。
 この据風呂を詠んだ子規の句に

  据風呂に紅葉はねこむ筧かな(明25

  蜜柑青き背戸の据風呂屋根もなし(明28

があり、当時の据風呂は屋外にあったようだ。
 据風呂といえば碧梧桐に

  据風呂に二人入りこむ夜寒かな(明29

がある。句意は、秋も深まり、急に気温が下がり肌寒くなった夜、湯が沸いたと聞いて二人は先を争うようにして湯に入ったというもの。この二人は虚子と碧梧桐で、場所は神田淡路町の下宿髙田屋である。二人が子規に見捨てられたと思い、半ば自棄になって放埒な日々を送っていた頃である。




2011年3月号 (153)
 

  「新校舎」                        栗 田 やすし

  
枯れ土手の交番巡査玻璃磨く  やすし
は昭和四十六年の作。自注で「長良川の忠節橋の袂にある交番。高校一年の時、この土手で応援歌を習わされたり、解剖用の蛙を捕まえたりした」と書いた。
 この自注を読んで、伊吹嶺同人の国枝隆生さんが同じ高校の卒業生であると知ったと言って、恩師の話など思い出を語り合ったが、その母校の校舎が取り壊されて新校舎が建ったから見てきたらと言われて、この正月に帰郷した折、長良川土手沿いに車を走らせて母校に立ち寄ってみた。
 母校の思い出と言えば、先ず恩師が思い浮かぶ。ターザンというのは数学の先生で、答案を返すとき、好成績の答案は一人ひとり手渡しするが、その他は答案を放り投げるので、私たちは自分の答案を求めて右往左往したものである。ニグロと渾名された英語の先生は、入学した最初の一時限から本気で、というのも変だが授業を始め、予習をしてこなかった者は次ぎ次と立たされて、「どこの中学から来たか」と罵声を浴びせられてすっかり萎縮したものである。
 二年生になり、学校剣道が許可されて防具が学校に配布されたと知り、早速、町道場に通っていたT君を中心に剣道部を立ち上げ、三年の秋の県大会で有段者揃いのG農林高を破って団体優勝したのは今も奇跡だったと思っている。
 その頃は教室で立たされることにも慣れて、放課後は道場で稽古に熱中した。
 新校舎は真っ白な鉄筋コンクリートの病院のような校舎であった。これが母校かと思うと何とも悲しい気持ちになった。
 あの雨漏りをした木造校舎が矢張り私の母校であるとしみじみ思った。
 国枝さんはどんな感想をもったのかまだ聞いていない。


2011年2月号 (152)
 

「ウソー」                        栗 田 やすし

 昨年の流行語大賞は「ゲゲゲの」が選ばれたが、特別賞には早大野球部主将齋藤佑樹くんの「…それは仲間です」が選ばれた。わたしもあの佑樹くんの優勝後のインタビューをテレビで観ていたが爽やかな気持ちにさせられた。
 顧みれば私が五十余年、まがりなりにも俳句を続けてこられたのもすばらしい多くの仲間に支えられてのことであった。有難いことである。
 かつての職場の教授会で、突然「異な事を承る」と言って立ち上がる元気の良い老教授がおられた。この「異な事を承る」はいつのまにか若い教員仲間内で冗談交じりの流行語となっていた。
 流行語というのではないが、若い学生たちが、会話の中でよく「ウソー」と言うのを聞く。それでわたしは「それでは相手に対して失礼ではないか」というと、「それは嘘だろう」というのではなく、相手の話に感動して発する感嘆詞のようなものだという。そこで私は「それなら『アソー』と言えば良いじゃないか」と言ったものである。
 ところで総合誌『俳句四季』の一月号で、かつての「風」の仲間の山田春生さんが「欣一先生と『風』の俳句界における影響」を書いておられる。その最後に、
  欣一は平成十三年十一月五日、肺炎のため亡くなった。八十二歳であった。そして「『風』は一代限り」という師の遺言通り翌年、滝沢伊代次が横浜で「万象」を、辻恵美子が岐阜で「栴檀」を創刊して師系を継承。
とある。これを読んで、思わず「ウソー」と声を発していた。



2011年1月号 (151)
 


新春に思う                        栗 田 やすし

 澤木先生から「……病院で越年しますが元気です」と年賀状をいただいたのは平成九年の正月であった。

 先生は前年の八月十三日に肺炎の恐れありと診断されて、新宿のJR総合病院に入院されていたのである。この年の一月十五日の「風」東京新年大会(京王プラザホテル)に病院の許しを得て出席され、「風」創刊五十一周年を迎えての決意を、

  日本も俳句会もいま目標もなく漂流しているときだけに、われわれの俳句はどういう方向に進まなければならないか、しっかりしなければいけない。写生を徹底すること、各自、夢と目的を持って実作に研究に創意工夫して勉強していきたい。と話されている。

 先生がJR総合病院を退院されたのは四月中頃であったが、「風」発行所をお訪ねすると、先生から「風愛知支部会報」を雑誌にするようにお勧めいただいた。思いがけないお話で、即答することが出来ず、名古屋に戻り「風」愛知支部の同人会に諮り賛同を得たので、その旨を先生にご報告して、誌名を「伊吹嶺」と命名し、題字を揮毫していただいた。早速、編集委員会を立ち上げ、翌十年一月に「伊吹嶺」の第一号を発行することが出来た。「伊吹嶺」は、この一月号で通巻百五十一号となり、創刊十三年目を迎えることとなった。

 今年は卯年、どんな年になるのか予測できないが、各自、健康に留意し、夢を見失うことなく、夢の実現のため努力を続けたいものである。





2010年12月号 (150)

句集『根深汁』                        栗 田 やすし

 この度、岡島溢愛さんが句集『根深汁』(豊文選書の第Ⅳ篇)を出版された。

 本句集は岡島さんが教職を辞したのを機に片山浮葉氏が新設の「春日井句会」に入会し、以来十五年の間に制作した句をまとめたものである。

 「あとがき」で岡島さんが、「句会の皆さんに『犬と夫の句は岡島さん。』とよく言われました」と書いておられるが、選句の過程でやはりその思いを強くし、〈病む犬を抱きて寝かす大旦〉〈老犬の鼾もれくる春ごたつ〉など作者と愛犬との温かい心の通いが詠み込まれた句を多く選ぶ結果となった。

 本句集の題名「根深汁」は

  吾は吾夫は夫なり根深汁

による。片山氏は「跋」で、この句に触れて、「不即不離の付かず離れずの生活信条として唱えているが、句集の夫との関係を繙いていくと、その信条とは裏腹の姿が見えてくるのに気付く。」とし、

  夫に買ふ生み立てといふ寒卵

  夫と飲む熱き焙じ茶春立てり

などの句を挙げて、「生活信条とは、およそ掛け離れた感覚や認識が、無意識のうちに俳句に具現化されている」ことを鋭く指摘されている。

 岡島さんは書と絵の道も精進されていて、『根深汁』では句集であると同時に書と絵の作品集でもある。

 『根深汁』の出版を祝うとともに、この出版を機にそれぞれの道で更なる精進を重ねられることを期待したい。




2010年11月号 (149)
 


蝗と桑の実         栗田やすし

  稲刈の腰にぶらさぐ一袋    伊代

  稲刈のあとは手分けで蝗とり

 「万象」十月号巻頭の「稲刈」七句中の二句である。懐かしい景である。

 昭和十九年秋、小学一年生の宿題は蝗百匹を捕ることであった。口に竹筒を挿した小袋に捕らえた蝗を一匹、二匹と数えて入れたものである。その蝗は校庭の大釜で茹で粉にして戦地の兵隊さんに送るのだと聞いていた。

 掲句の腰にぶら下げた袋は捕った蝗を入れる袋ではなかろうか。手分けして蝗を捕ったのは伊代次少年たちであろう。

 「風」の大先輩の滝澤伊代次氏の訃報には、あまりの唐突さに返す言葉を失った。そして、あらためて、あの大声の「いよ──じ」の名乗りを懐かしく思った。先年、「万象」の名誉主宰となられたことで、故郷信州を想い、悠々俳句三昧の日々を過ごされていると思っていだけに悲しみも一入である。

 それにしても、先般、「風」の大先輩の皆川盤水氏がお亡くりになったばかりである。このお二人には常に励まされてきた。それはわたし個人だけでなく、「風」愛知県支部への、また「伊吹嶺」への力強いご声援であった。

 盤水氏は俳人協会総会などの懇親会でお目にかかると「栗田さん、よくがんばっているね」と温かい手で握手して下さるのが常だった。

  桑の実ぐ汗走らせて童たち    盤水(「春耕」平22・9)

  電線の影濃き刈田野寺道

 今ごろ、お二人はふるさとの野山を駆けておられることであろう。  合掌。




2010年10月号 (148)
 


 句集『杉山』         栗田やすし

 
中山ユキさんの第一句集『杉山』が出た。まことに喜ばしいことである。
 本句集の巻頭句の

  
緑蔭の土掘りて犬はらばへり

は「風」(昭47・12)の初入選句である。日常生活の中で犬の習性を確かな目で捕らえた句で、季語「緑蔭」がよく効いている。
 ユキさんの句は、名所旧跡への旅吟とか、祭礼・行事を詠んだ句というのはほとんどなく、ごく身近な日常的な素材を繊細な感覚で詠んだ句が多く、それが本句集の最大の特色といえる。

  
茶の花に夕べの雨の残りたる

の句は平成八年の作であるが、透きとおる茶の花の花弁に光る水滴に対して純真に感動しているのである。茶の花のみずみずしい生命力が、水滴を得て実に適切に捉えられているのに感心させられる。
 句集名の「杉山」は、ユキさんのお住まいが杉山を背にした静かな田園地帯にあり、本句集中には

  
杉山をぬけて明るき冬菜畑

など杉山を詠んだ句による。「杉山」は豪華でも華やかでもないが、長年にわたって地道に俳句と関わってこられたユキさんにふさわしい句集名と思う。
 ユキさんにはこれからも伊吹嶺の大先輩として、健康に留意され、俳句を楽しむ生活を何時までも続けられることを祈ってやみません。


2010年8月号 (147)
 


鳥つぶて          栗田やすし

   しぐるゝや窓を掠むる鳥つぶて
 この句は昭和十四年、沢木先生が二十歳の時の作である。先生は自註で「犀川の河岸、蛤坂新道という面白い名前のところに下宿していた。窓を開けるとすぐに犀川が見え、川の瀬音が聞えた。」と記されている。この句は
  
しぐるゝや(5)窓を掠むる(7)鳥つぶて(5)
の十七音からなる五・七・五の定型で、「しぐるゝ」は「時雨るゝ」であり、冬の季語であることを知れば、「有季定型詩」であることが確認できる。さらに切れ字「や」によって上五で切れた典型的スタイルの俳句であることがわかる。
 中七の〈窓を掠むる〉の「掠むる」は文語で、マ行下二段活用の動詞の連体形で、座五の体言「紙つぶて」に係る語である。意味は、「触れるか触れないかの所を通り過ぎる」であり、小鳥の一瞬の動きを的確にとらえ得た言葉である。
 問題は座五の「鳥つぶて」である。広辞苑に「雪礫」「紙礫」の語はあるが「鳥礫」はない。つまり、これは先生の造語である。加藤憲曠氏はこの語に触れて、「昭和十四年当時にこのような優れた言葉が生まれたということはおそるべきことである。」とし、「この一句は、この座五の押えによって生気を得たと言って過言でない。」(綾子編『欣一俳句鑑賞』)と激賞されている。
 われわれは実作者として自分の作った俳句を、十七音(五・七・五)か。調べはよいか。季語は生きて働いているか。言葉は適切か。文法的に誤りはないかという俳句の基本を自らの手でもう一度点検する覚悟が必要であろう。
 研究心の無いところに進歩はない。


2010年8月号 (146)
 

鑑賞差=再び=          栗田やすし

 俳句は、五・七・五(十七音)の世界で最も短い定型詩である。
 これは日本語の特性がつくりあげたリズムの集約と考えてよいが、俳句はその短い形式である十七音に全てを言い切らなければならない。十七音に内容を封じ込めて、いかにそれを読者に効果的に伝達するかが作者の伎倆の見せ所と言うことになる。

 鑑賞する側から言えば、俳句を鑑賞する手だては十七音だけである。それだけに十七音中の語彙の一つ一つを正確に理解することが求められる。
 鑑賞差が生じる原因の一つは語彙を誤って解する場合で、これは鑑賞差云々をいう以前の問題で、明らかに誤りである。辞書を引けばこのような誤りは防げる。季語で言えば秋の季語「花野」を春の季語と誤って鑑賞すればピント外れの鑑賞となる。
 ここで鑑賞差というのは、語彙を正確に理解しても生じる場合である。それは俳句が短いという事から生じるもので、語彙を正確に理解していても、「作者」と、その俳句が作られた「時」と「場所」を知らないで鑑賞すれば、鑑賞に差が生じる場合がある。この場合どちらが正しく、どちらが誤った鑑賞と一概には言えない。鑑賞するという事は作者の感動を「追体験」することである。したがって作者の感動{ああ}により近い鑑賞を良しとするのである。しかし、時には鑑賞者が自らの人生体験と感性によって、作者の思いもよらない鑑賞をすることがある。しかし、ここで大切なことはその鑑賞が作者の感動の本質から逸れたものであれば、それがいかに新鮮で詩性に富んだものであったとしても、作者にとっては不本意な鑑賞と言うことになろう




2010年7月号 (145)
 

句集『母の鍬』           栗田やすし

 中根多子さんの第一句集『母の鍬』が出来た。おめでたいことである。
 句集の原稿を預かってから何回も句稿に目を通し、その特色を掴んで千句ほどの中から二百七十五句を選ぶのは責任重大であるが楽しい作業でもあった。
 本句集は伊吹嶺叢書第三十四篇であるが、こうして完成するたびに、わが事のように喜びがこみあげてくる。以下、祝意をこめて序文の一部を紹介する。

 多子さんの俳句は
   
雪解水山葵田へ出てきらめけり
の句に見られるように、自然界の微かな音をも敏感にとらえた佳句が多いことであろう。
 これは、若き日に農業に直接関わる中でごく自然に培った感性なのであろう。本句集の中の
   
鍬の柄を短く持ちてわけぎ掘る
   菜の花をねこそぎにして耕せり

 の〈鍬の柄を短く持ちて〉〈菜の花をねこそぎにして〉といった捉え方は農業に直接かかわった者でなければ出来なかったであろう。
   
父快気冬耕の土よくほぐれ
   母の鍬手になじみたり畑返す

は、一生を農業に打ち込まれたご両親への思いのこもった句として強く心を打つ。
  本句集の題名を「母の鍬」とした所以である。




2010年6月号 (144)
 

木瓜の花           栗田やすし

 三月も半ばとなるとわが家の庭にもいろんな花が咲く。
 
真っ先に目に入るのはさくらんぼの花で、うす紅色の花をいっぱい咲かせている。その隣には紅梅の木が一本。あでやかな花を咲かせている。芝庭を取り巻く垣の山茶花の花は終わったが、その裾に植えた数株の雪柳がしなやかに伸びた枝にはぽつぽつ花を咲かせ始めている。庭の正面には孫娘のために植えたしだれ桜が人の背丈ほどになって大きく枝を拡げているが蕾はまだ固い。
  庭の東南隅の木瓜には真紅の花が今を盛りと咲いている。
  この木瓜の花を詠んだ漱石の句に 

  木瓜咲くや漱石拙を守るべく

がある。これは<愚かければ独りすゞしくおはします><能もなき教師とならんあら涼し>など、心の内を表白したものである。なぜ木瓜の花なのかは、漱石が他にも<其愚には及ぶべからず木瓜の花><木瓜の花役にも立たぬ実となりぬ>と詠んでいるように、木瓜の花に「愚」の意を寓していたようである。
  <拙を守る>は陶淵明の「帰園田居」の一節「拙を守りて園田に帰る」に基づくもので、己の天性にしたがって世に処する態度を示したものである。
  漱石は小説「草枕」の中でも、「木瓜は花のうちで、愚かにして悟つたものであらう」「余も木瓜になりたい。」と主人公の画家に言わせている。

    木瓜咲くや怠け教師として終る   やすし

の句は、およそ四〇年近く、点々と職場を変えた末、平教授で教員生活を終えたときふと口を突いて出た一句である。




2010年5月号 (143)
 

愛犬ハチ           栗田やすし
     

 
 私のふるさと鏡島は中仙道沿いの村で、今も鏡島弘法(乙津寺)の縁日には多くの善男善女で賑わっている。『新撰美濃志』によれば宗祇が当寺に来て〈香がしまは異木も匂へ梅の寺〉と発句して後、梅寺とも呼ぶようになったという。
 この鏡島村(現・岐阜市)の長良川左岸の藪深い家が碧梧桐の高弟塩谷鵜平の家である。塩谷家は田地五十余町歩、他に広大な竹藪を所有する豪農であった。
 私が懇意にしていただいたのは俳人塩谷鵜平氏の長男ご夫妻で、鵜平氏はすでに亡くなっていた。屋敷内には三千里旅中の碧梧桐のために新築した「芋坪舎」も残っており、鉄筋の書庫には碧梧桐関係の資料が整然と所蔵されていた。
 この塩谷家の向かいの分家の長男と兄が岐阜一中の同級生で、兄についてよく遊びに行ったものである。その家に生まれた柴犬の雄の子を貰って「ハチ」と名付けて可愛がったが、田舎のことで放し飼いであった。
 当時、母は自宅から歩いて三十分ほどの岐阜市民病院の産科に事務員として勤めていた。当時私は学生で、時間の許す限り母を自転車に乗せて産院に送り込み、そこから電車で大学へ出かけたものである。
 その母の勤務が終わる五時になるとハチが産院の玄関まで迎えに来るようになった。初めは気にもしなかったが、それが毎日決まって同じ時刻に迎えに来るようになり、看護婦さんたちもハチが来ると母に帰宅を促すようになった。
 私は卒業後名古屋に出たが、数年して母よりハチは死んだと言ってきた。
 犬は賢くて飼い主の心をよく理解しているようであるが、ハチは何を考えて毎日決まった時刻に母を迎えに産院まで来たのだろうか。
 忠犬ハチ公のような話で、作り話めいているがほんとの話である。



2010年4月号 (142)
 


春の富士              栗田やすし
     

 桜の咲く季節になると三島時代を思い出す。日大の三島キャンパスには二十二年間勤務したが、前半は狩野川畔の家と、名古屋の家との二重生活であったが、後半は三島の家を処分して名古屋に戻り、新幹線通勤の十二年であった。
 沢木・細見両先生を三島にお招きして名古屋句会の仲間二十名ほどで伊豆吟行会をしたのは昭和五十七年三月二十一、二十二の両日であった。願成就院など北条氏ゆかりの寺を吟行し、沢木先生はここで
  
子蜘蛛生る尼将軍の産湯井戸
と詠まれた。その日は長岡温泉の山田屋にお泊まりいただいたが、後日、
  
目借時湯宿に眼鏡わすれた
の句を「風」に発表され、何も知らなかった迂闊さに恐縮したものである。
 翌日は修善寺を吟行し、
  
彼岸桜うらわかき蜂あつめたり   欣一
  花の鐘伊豆修善寺にて聞けり    綾子

と詠まれている。修善寺はすでに桜が五分咲きであった。
 この吟行の帰り、両先生に三島の拙宅に立ち寄っていただいたが、綾子先生は二階の書斎の窓から真正面に見える富士山を大変喜ばれて、
  
新居より手にとるばかり春の富士
  三島の富士近し菜種の花つづき

と詠んでくださった。桜の咲く季節になるたびにこの二日間の吟行を懐かしく思い出すのである。




2010年3月号 (141)
 

鑑賞差              栗田やすし
     

 昔、といっても四十年ほど前のことだが、わたしは句会で〈増長の背の闇凍ててしづもれり〉と言う句を作って出句したところ、指導者の特選に選ばれ、その選評はおおよそ次のようなものであった。
  この句の作者は増長した男を、つまり自分は偉いと思い上がっている男を冷ややかに見ているのである。それを〈背の闇凍ててしづもれり〉と物に即して言ったところが優れている。
というものであった。私はそれを聞いて驚いた。実は、この句は奈良の戒壇院の増長天を詠んだものである。もし私が〈増長天背の闇凍ててしづもれり〉と詠んでいればこのような誤解はされなかったであろう。
 ところが、私の近作、〈春の夢はつしと面を打たれたる〉をAさんが鑑賞してくださったのだが、〈面を打たれたる〉を横っ面を張られたと解しての鑑賞であった。私は剣道の試合で、見事に一本面をとられた夢を見て、はっと目を覚ました様子を詠んだのである。しかし、Aさんは私が剣道をしていたことをご存じないのだから、横っ面を張られたと解されたのは決して誤りではない。
 俳句は短い。それだけに作る側から言えば、表現が曖昧であってはならないし、鑑賞する側から言えば、言葉を正確に解釈して鑑賞するという基本を忘れてはならないのである。
 言葉を正確に解釈した上で生ずる鑑賞差は短い詩型の俳句が負わねばならない宿命と言えよう。それだけに鑑賞する側の感性、詩性が問われることとなるのである。



2010年2月号 (140)
 


COP10              栗田やすし
     

 今年の元日は雪であった。わが家では一センチほど積もり、四歳の孫娘と小さな雪だるまを二つ作った。脱臭用の炭を適当に割って目鼻口とした。そういえば雪兎の目は南天の実であったことを思い出す。
 子供の頃は郷里の岐阜市内でもひと冬に二十センチや三十センチの雪の積もる日が何日もあった。雪が降れば長良川の堤は絶好のスキー場となり、手作りのスキー板や橇で遊んだものである。高校の卒業試験の当日、長良川の堤沿いに長靴が埋まるほどの雪に難渋してやっとの思いで学校にたどり着くと、今日は深雪のために試験は出来ないと知らされてほっとするとともに気が抜けたことを思い出す。五十四年も前のことである。
 長良川には思い出が詰まっている。春は土手の土筆や蓬を摘み、夏は毎日のように褌で川に入り、鮎、鮠を、どんこは箱眼鏡で覗いて釣った。メダカは泳ぎが上手くなると言って手で掬って生きたまま呑み込んだ。秋は曼珠沙華が咲く土手下の河川敷で草野球に興じ、冬は仲間と土手を焼いて遊んだ。正月は凧揚げを競ったものだ。西方にはいつも伊吹山が聳えていた。
 ところで、今年十月には名古屋市で生物多様性条約第十回締約国会議(COP10)が開かれて、市と地元財界が「俳句」を通じて日本人の自然観を伝え、190を越える参加国・地域と交流するイベントを計画中という。それは、それぞれの国で、自国の自然観を反映する句を募集し、現地語に英語と日本語の訳も付けて「白鳥公園」で披露するのだと言う。
 「伊吹嶺」としても関心をもってこの一年を意義ある年としたいと思う



2010年1月号 (139)
 

 俳誌「伊吹嶺」と「伊吹嶺HP」
                栗田やすし    

 明けましておめでとうございます。
 「伊吹嶺」も創刊以来十二年目の新年を迎えました。「今年も夢に向かって頑張りましょう」。と書いている今日は二十一年十一月二十六日です。しかし、年賀ハガキもすでに売り出されて、気の早い人は「明けましておめでとう」と書き始めていることでしょう。
 それを考えれば、十一月に「明けましておめでとうございます」と書くことも何の不思議もないことなのでしょうが、やはり嘘っぽくて気の乗らないことです。だったら書かなければよいでしょうが、正月に書いたのでは「伊吹嶺」の三月号で「明けましておめでとうございます」と言うことになってしまいます。
 「伊吹嶺」を創刊した平成十年に、「伊吹嶺」は「インターネットホームページ開設誌」としてスタートしました。それを危ぶむ声が多かったのですが、インターネット部の皆さんの熱意で試行錯誤を重ねて今日まで着実に発展してきました。
 月刊誌「伊吹嶺」と「伊吹嶺HP」とは車の両輪であり、お互いの長所を生かし、欠点を補うものとして発展させていくことが理想でしょう。私は十年先か二十年先かは分かりませんが、将来は「伊吹嶺HP」が主流となり、俳誌「伊吹嶺」はその補佐的な役目を担うようになるだろうと思っています。
 そうなれば二ヶ月以上も前に「明けましておめでとうございます」と書くのではなく、元日に全会員の皆さんに一斉に「明けましておめでとうございます」と言えるようになることでしょう



2009年12月号 (138)
 

  

気宇壮大
                栗田やすし    

「伊吹嶺」の全国大会は今年は豊橋で催された。
 沢木先生が、「風」の全国大会で「全国より、北は北海道、南は沖縄に至るまで各地より」と言われたが、「伊吹嶺」も創刊十二年を経て、「北は仙台から南は沖縄に至るまで…」の同人・会員の皆さんが万障繰り合わせて参集され、熱気あふれる会となったことに感動した。
 大会に集まった人々は「伊吹嶺」創刊以前の、「風」愛知支部を創設した昭和四十七年以来の人あり、またごく最近会員になった人もいる。
 綾子先生が、俳句の仲間は少なくとも月に一回は顔を合わせる。これは親子や兄弟や夫婦の間柄にも劣らない縁だと言われたことがある。俳句との出会いは偶然とも云うべきものであったが、歳月を重ねるうちに「伊吹嶺」という雑誌の場を通じて動かない間柄になったということである。
 最近「伊吹嶺」に入って勉強を始めた人々は、その動機はさまざまであろうが「伊吹嶺」の歴史と重なり、「伊吹嶺」の歴史を受け継ぎ、「伊吹嶺」に新しい生命を生むこととなる。
 私は創刊以来「伊吹嶺」は地球規模でと言い続けている。幸い「伊吹嶺」はインターネットからの入会も年々増加する傾向にある。とは言うものの、まだ緒に就いたばかりである。
 あと一ヶ月でまた新しい年を迎える。同人・会員を問わずお互いに心を通わせて、三十年、五十年先を見据えて、沢木先生の言われた「気宇壮大」に進みたいものである。




2009年11月号 (137)
 

 

小紅の渡し
                栗田やすし    

 毎月二十一日は美濃三弘法の一つ鏡島弘法乙津寺の縁日である。
 鏡島弘法は中山道沿いで、わが家と母校鏡島小学校の中程にあったため、縁日には、ランドセルを家に放り投げると弘法さんへ駆け戻ったものである。「小紅の渡し」は弘法さんの裏を流れる長良川の渡しである。西に伊吹山を眺め、東に金華山を仰ぎながらの渡し舟で、縁日には今も参詣の老若男女で混み合う。
 私の少年時代には渡しは他にも二、三カ所あった。
   
芹摘みし籠を舳先に渡し舟   昭45
は少年時代の回想句で、この渡しはお紅の渡しより少し上流にあった。
 お紅の地名の由来については諸説あるようだが、民話風のものとして
 河渡の村から川向こうの鏡島へよめにいった娘がいた。着物は地味で髪飾りもないよめさんだったが、渡し舟で川を渡るとき、川の水を鏡にして化粧した。口もとに紅をさした。ほんとうにきれいになった。そこからここをお紅の渡しというそうな。
というのがある。
   
底の石見えて舟着く水の秋   平9
は今のお紅の渡しを詠んだものであるが、川の水は澄んでいるとは言うものの六十年前の長良川の水は谿水のように澄みきっていた。
 今年、墓参をかねて何十年ぶりかで初弘法に出かけた。
   
渡船場の少し上手に鴨の群れ
   ふるさとに旅人めきし冬帽子


 
2009年10月号 (136)
句 会
                栗田やすし     


 沢木欣一先生に「句会」と題した「風木舎俳話」がある。要点をまとめれば次のようになる。

  
句会ほど民主的な世界は他にないであろう。俳句を作りはじめの初心者も年を経たベテランも同じ資格である。だいたい他の場では音楽でも絵画でも初心者がいきなり同じ場に出ることなど考えられない。
  句を作る楽しみは、句会に出て多くの人々と出会い理解し合う喜びと一致するものである。俳句のような短い詩は油断すると独りよがりに陥り、偏狭なものになる危険がある。客観性を得るためにはどうしても多くの人に見てもらうことが肝要である。同時に他人様のすぐれた句を見せてもらい、それを自分の喜びとする心の広さが必要である。両者相俟って打てば響くような充実した句会であってほしい。
  私などずいぶん長く俳句を作っているが、正直なところ今だに自選力が弱いことを嘆いている。だから句会に出て誰か信頼できる人に句を選んでもらうとこの上なくうれしい。そして自分の句が独り立ち出来たと思うのである。


 これを書かれたのは昭和六十三年で先生が古稀を迎えられた年である。先生は私たち弟子の目線に立って優しく説いておられるのであるが、先生のような大家の言葉としては何とも謙虚なことばである。先生はまた、「齢を重ねて一番感じることは観念的な傾向を増すことで、即物具象・写生ということを言い続けているのは自戒の弁でもある」との感慨も洩らしておられるのである


 
2009年9月号 (135)

選句
                栗田やすし    

 
私は、毎月熱心に投句されてくる伊吹集への投句作品を選ぶのを楽しみにし、選を誤らないよう常に精神を集中して進めているつもりである。
 選に際して私は、個々の俳句の良し悪しで選んでいるのであって、何句選ぼうかと考えて選をしているのではない。
 しかし、選をされる側から言えば、先ず何句選ばれたかが一番の関心事であろうが、それは結果にすぎない。入選句が一句であろうが二句であろうが、選ばれた句が一次予選を通過したと考えれば良いのである。というのは、長年句作を続けた結果、句集にまとめようとするとき、多くの入選句の中から何分の一かを選んで句集にまとめることになるからである。
 すでに句集を出した経験のある人ならば分かってもらえると思うが、句集にまとめる際、この句は四句入選した時の句で、この句は一句しか入選しなかった時の句などとは考えず、あくまでも作品本意で選ぶことになるからである。
 投句者にとって毎月の入選句数は気になるところであろうが、「伊吹集」への投句は俳句の基本を学ぶ道場と心得て、これからも真剣に取り組んでもらいたい。
 私の選の基準は、対象を大切にし、物に即して感じ、着実に表現することであり、さらに言えば、月並み俳句をさける。つまり観念で句を作るのではなく、写生を作句の基本の態度・方法を重んじることである。



2009年8月号 (134)
 


  

無心
                栗田やすし      

 俳句を作ろうとする。吟行では特に「作ろう」という意識が強く働いて、目に見えるものをよく見、耳に聞こえるものをよく聞くということを疎かにしてしまっているようだ。虚子は
  
じっと眺め入ること
と言っている。目の前を去来する風景を、何時までもじっと眺めている中に心の内に感動が湧いてくる。その感動をしっかり心に据えて、なお見つめ、はっきりした印象を掴めたとき始めて句が生まれると言うのである。初めから俳句になりそうな風景(素材)を求めて右往左往しても月並句しか出来ない。
  
無心の状態で自然の風物を見ることが大切
だと説いたのは素十である。吟行会で無心になるということなどなかなか出来そうにないが、実はこれこそ句作の極意なのだろう。
 心の内に感動が湧くということは、ものの実相に迫り、その生命を捉えたときの心の震えとでも言えようか。それは瞬間であり、しっかり把握しないと消え失せてしまう。
 芭蕉が
  
物のみえたる光、いまだ心にきえざる中にいひとむべし
と言ったのもこのことであろう。
 吟行で句帖にいきなり句を書き付ける人もいれば、気付いたことをメモするだけという人もいる。だがそれは「物の見えたる光」(感動)を「はっきりした印象」として把握さえしていれば、どちらでもよいことであろう

 


2009年7月号 (133)
 


  

鵜篝              栗田やすし  

 私の故郷は旧中仙道沿いで、長良橋より数キロ下流の鏡島村(現岐阜市)である。村の外れには碧梧桐の愛弟子塩谷鵜平の屋敷があり、明治四十四年に続三千里の旅中の碧梧桐を迎えるために新築された書斎「芋坪舎」は今も屋敷内に残っている。

 私が育った家は長良川の堤の下にあり、中学生の頃まで夏になれば毎日のように友達と長良川で泳いだ、といっても私は泳ぎが苦手なので、泳ぐよりも鮎、鮠などを捕らえて遊んでいた。

 当時、長良川の鵜飼は上・中・下と漁域がはっきり分けられていて、下鵜飼の日には友人K君とカンテラを提げて真っ暗闇の河原に降りて鵜舟の来るのをじっと待った。待つことしばらくして真っ暗闇だった川上の空がぼんやり明らみ、やがて六艘の鵜舟が赤々と闇を照らして下ってくる。

  川上の空明かりして鵜舟現る

はその時を回想して詠んだものである。

  鵜篝の靡くを祖なる火と思ふ

 赤々と川面を照らして眼前に迫ってくる篝火の妖しく燃えさかる炎色は今でもはっきりと目に浮かぶ。

 鵜舟が近づくと川底で眠っていた鮎は篝火の明かりを怖れて浅瀬まで逃げてくる。私たちはカンテラをかざしてそんな鮎をタモで掬うのである。

 もう六十年近くも前のことである。

 今年もまた鵜飼のシーズンがやってきた



009年6月号 (132)
 

  

万緑叢中醜一点             栗田やすし  「伊吹山房まではどのくらいですか」と、ある人から真顔で尋ねられたことがある。「数歩ですよ」と応えながら、その人の夢(?)を壊してしまったような気がしたものだ。その人は、伊吹山麓かどこかにある山荘を想像されたのだろうが、伊吹山房はわが家の玄関脇にある十五畳ほどの書庫で、扉の上に「伊吹山房」の額が掛けてある。何かの工房ですかと尋ねられたこともある。
 「伊吹山房」と名付けたのは、伊吹山は私にとって故郷の山だからである。私は第一句集『伊吹嶺』(昭56)の「あとがき」に
  伊吹山は濃尾平野の西に聳える伊吹山地の最高峰である。
  元禄四年、芭蕉は垂井より大垣に出、千川亭に遊び

    折々に伊吹をみては冬ごもり
  と詠んでいる。
  私の故郷鏡島村(現岐阜市)から大垣へは中仙道を西にとって三里。家郷に居て長良川の土堤から眺める伊吹山は最も美しい。
  私がしみじみふるさとを感じるときでもある。
と書いた。
 ところで、登山家としても知られる碧梧桐はその著『日本之山水』(大5)の中で、「諸国の名山」の一つとして伊吹山をとりあげて詳しく書いているが、山頂の日本武尊の石像について「湖光山色の風光上よりしても、かかる粗悪の立像は万緑叢中に醜一点を遺すものであ」り、「尊の威厳を損するといふよりも、寧ろこの山の史実を傷つけるものである」といかにも碧梧桐らしく手厳しく評している


2009年5月号 (131)

 巧を求むる莫れ
                栗田やすし       

 正岡子規はごく初歩の俳人に対して

  俳句をものせんと思はゝ思ふまゝをものすべし。巧みを求むる莫れ、拙を蔽ふ莫れ、他人に恥かしがる莫れ

と説いている。巧く作ろうとする気負いが美しいものを見て美しいと感動する純真な心を曇らせてしまうのをおそれての言葉である。

 ベテランと初心者が技巧で競おうとすることの愚は誰の目にもあきらかである。技巧というものは日々の努力の積み重ねによってのみ得られるもので、ただ焦ってどうなるものでもない。

 まさに、「拙を蔽ふ莫れ」「他人に恥かしがる莫れ」である。初心者が拙いのは当然で、何も恥ずかしいことではない。拙いながらもそこに込められた感動が手垢にまみれていない純真なものであれば人の心を打つのである。

 初心者の何よりの武器は「初々しく、無垢な心」である。経験を積むことによってこれを忘れてしまうのを芭蕉も戒めて「俳諧は三尺の童にさせよ」「初心の句こそたのもしけれ」と言っている。これは相当のベテラン俳人に対して説かれた言葉である。

 二十年も三十年も俳句を作っていてそれなりに技巧を身につけたとしても、感動そのものが俗気にみちたものであればどうしようもない。

 子規も「初心の時の句は俗気をはなれてよろしく、少し巧になりし後はなまなかに俗に陥る事多し」と述べている。

 初心者もベテランも深く肝に銘ずべき言葉である


2009年4月号 (130)

 素人の仕事            栗田やすし              

 15年前に名古屋駅近くの大正町から鳴海の丘陵地に移ってきたが、庭師の言うまま庭には芝を植え、欅・樫・楓・槙などのほか椿・枝垂れ梅・花桃・枝垂れ桜など雑多に植えた。

  移り住んでしばらくは芝も美しく、春先には芝生に生える雑草をピンセットで抜くのも朝の日課だったが、それも数年で雑草の勢いに負けて、今では雑草天国。夏ともなれば、前にも書いたが、放し飼いの愛犬が走り回る姿はまるで草原を駆けるライオンか何かのようで、とても家の庭とは思えない。その上、植木が大きくなって真夏ともなると、生け垣ともどもむさ苦しくなる。

  毎年庭師のお世話になっているが、昨年は庭師のうちの一人が新顔で威勢の良い庭師であった。その作業を見ていた私に、「これまでの剪定は間違っていて、庭木としての枝振りが全く損なわれてしまっている。」と言いつつ威勢よく枝を剪っていくのであった。

  ところが、今年は例年の庭師の都合がつかず、Kさんの紹介で新しい庭師に来てもらった。ところが作業中の庭師が私を呼んでいるというので庭に出ると、いきなり「これは旦那さんが剪ったのか」と言うので、あらためて聞いてみると「これではまったく素人の仕事だ」と言うのである。昨年の庭師の講釈を感心しながら聞いていた私は唖然とし、これでは今まで剪定の基準が違う庭師の思いのままにばっさり剪られてきた庭木があまりにも可哀相である。

 庭師によって剪定の基準が幾らか違う事もあろうが何事もこれだけは守るという基本と言うものがあろう。それにしても「これは素人の仕事だ」には驚いた。



2009年3月号 (129)
 


伊吹嶺の名誉会員             栗 田 や す し

 

 今年の新年大会で私は「伊吹嶺」創刊以来直接お世話になりご指導、ご支援頂いた五人の先生方に「伊吹嶺名誉会員」となって頂くことを快諾して頂いた旨報告しました。

 これらの先生方は「伊吹嶺」を創刊する以前から親しくご指導して頂いていた先生方です。平成十四年には「伊吹嶺」創刊三周年記念号のため赤塚・浅田・加藤の三先生に鼎談を御願いし、「伊吹嶺」の進むべき道を示して頂き大いに元気づけられたものです。
 ここで改めて五人の先生方を簡単に紹介します。

 赤塚正幸先生(詩人・近代文学専攻・北九州市立大学教授)には随筆「妄言不謝」に続き、現在「酔頭酔話」を連載して頂いています。

 浅田隆先生(近代文学専攻・奈良大教授)には「奈良の綾子さん」を連載して頂き、平成十八年の新年大会で講演(「奈良の綾子さん」)して頂きました。

 加藤孝男先生(歌人・近代文学専攻・東海学園大学教授)には平成十六年の新年大会で講演(「短歌と俳句はどう違うか」)と、随筆「俳林逍揺」を百回連載して頂き、目下次の連載を準備して頂いています。

 田中文雅先生(上代文学専攻・就実大学教授)には私が院生時代より公私ともにお世話になり、昨年の新年大会には「望郷の俳人たち」と題して講演して頂きました。

 浜田真理先生(画家・日本大学教授)には随筆「点景」を連載して頂き、平成十九年の新年大会でご講演(「日本絵画の空間表現」)、それに「伊吹嶺」十周年記念号と今年の表紙絵を描いて頂きました。

 各先生にはこれまで以上にそれぞれの分野からのご指導とご支援をお願いし、伊吹嶺の発展を期したいと思います。



2009年2月号 (128)
 

 

  句会の充実   
  
                                      栗 田 や す し

 「伊吹嶺」の創刊時には二十七句会であったが、今では六十句会を越えた。創刊以来句会の数が増え続けていることは心強い限りである。これは各地の同人・会員の皆さんが苦労して句会を立ち上げたおかげである。句会を継続するには指導者の熱意が不可欠であることは言うまでもないが、会員一人ひとりが目標を定めて毎月熱心に根気よく実作に励む姿勢が大切である。
 句会の楽しみは句会に出てくる人々と出会い、お互いが理解し合い向上する喜びを共有することにある。

  俳句のような短い詩は油断をすると独りよがりに陥り、偏狭なものになる。   客観性を得るためにはどうしても多くの人々に見てもらうことが肝要である。  同時に他人様のすぐれた句をみせてもらい、それを自分の喜びとする心の広さ  が必要である。両者相俟って打てば響くような充実した句会であってほしい。
   (「風木舎俳話」百三十九)

とは沢木先生のお言葉である。これこそ句会のあるべき姿であろう。
 私は句会そのもののレベルが向上することが大切であると思っている。
 句会の指導者を中心として句会のレベルアップを目指して努力している句会は活気に満ちて自ずと充実した句会となる。
 指導者は先ずしっかりとした目標を定め、自らが実作に励むとともに、会員一人ひとりの向上心を喚起しつつ、句会運営がマンネリ化することのないよう常に工夫を凝らす努力をしてほしい。
 新年にあたって各句会がより充実した句会となるよう期待する。



2009年1月号 (127)
 
 

  個人的感情の重視    栗 田 や す し                       

 子規の俳句革新は天保以降のマンネリズム化した月並み俳句を打破することにあった。子規は新俳句の立場と月並俳句の立場を比較し、その「根底よりの相違」として、

  我は直接に感情に訴へんと欲し彼は往々知識に訴へんと欲す

と説いている。

 この「知識に訴へ」るというのは、理屈的な判断にまつことを意味し、理屈によって俳句を作ることであり、子規の言葉を借りれば、「理屈とは感情にて得可らず、知識に訴へて後始めて知る者」ということになる。

 この「感情」を重視するということは、俳句が文学であるという自覚の上に立った、個人的感情を尊重する態度を示すものである。

 子規がこのように「個人的感情」を重視したのは、子規自身の文学観からの偽りのない人間感情を「個」の意識とつなぐことによって俳句を近代に適応した文学に革新しようとしたものであった。

 子規は晩年、病床で草花を写生することを楽しみとするが、連日写生を続けて到達した写生観を「病牀六尺」の中で

  草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分かつて来るやうな気がする。

と記している。

 晩年に至って、子規の写生観は子規の内面の意識、世界観をあらわすところまで到達していたのである。



2008年12月号 (126)
 

 
 
糸瓜                     栗田 やすし 
                                          

Nさんから貰ってプランターに蒔いた子規庵の糸瓜がひょろひょろと伸びて二つ実をつけた。それを見ていて子規庵の糸瓜のことを思った。
   子規庵へは何度も出かけたが、いつ出かけても糸瓜棚から大きな糸瓜が幾つもぶらさがっていたように思う。糸瓜が年中ぶら下がっている筈はないのだが記憶の中では青々とした大ぶりの糸瓜が目に浮かぶ。
 子規の絶句、

  絲瓜咲いて痰のつまりし佛かな
     をととひのへちまの水も取らざりし
     痰一斗絲瓜の水も間にあはず

はよく知られているが、これより一年前の明治三十四年九月二日より執筆を始めた「仰臥漫録」に子規は

  庭前の景は棚に取付てぶら下りたるもの
     夕顔二三本瓢二三本絲瓜四五本夕顔
     とも瓢ともつかぬ巾着形の者四ッ五ッ

と書き、

  夕顔ノ實ヲフクベトハ昔カナ
      夕顔モ絲瓜モ同シ棚子同士
       夕顔ノ棚ニ絲瓜モ下リケリ

などの句を記している。「棚子同士」は「店子同士」の子規流の洒落といったところ。この日、子規は午後八時、腹痛に苦しみ、鎮痛剤を呑むが、呼吸苦しく煩悶を極め、明け方少しだけ眠るという状態であった。




2008年11月号 (125)

   母 郷                          栗 田 やすし

 

 私は「母郷」という言葉が好きだ。母郷という言葉には「故郷」とは違う温もりを感じる。
  故郷が生まれ育った土地というのであれば、私のように旧満州で生まれ、二歳にもならない幼児期に母と兄の三人で父の故郷鏡島村(現岐阜市)に引き揚げ、成人するまでそこに住んでいた者にとって、満州も鏡島も正確には故郷ではなく、母郷であると思っている。それは、母との思い出がいっぱい詰まっている土地を母郷と言うのだと思うからである。
  鏡島は長良川沿いの集落で旧中仙道の加納宿から河渡宿の中間に位置し、美濃三弘法の一つ「鏡島弘法」で知られ、縁日には参道に店が並び善男善女で賑わう。私は友達とランドセルを家に放り投げると一目散に「弘法さん」に駆け付けたものである。
  「小紅の渡し」が史実に登場するのは、元禄五年というから、長良川に古くからある渡しで、今でも弘法さんの縁日には多くの参詣人が利用する。
  「小紅」の名前は、対岸から嫁入りするときに、花嫁が水面に顔を映して紅を直したからとか、小紅という女船頭がいたからというが定かではない。
  この手漕ぎの渡し舟にまつわる思い出は多い。対岸の「いぼ神さま」へお参りしたこと、空襲で焼けた従姉の嫁ぎ先を訪ねたことなど、その全てが母との思い出につながる。
  つまり、鏡島を中心にして、伊吹山も金華山も、それに長良川、その他諸々の風物が、深く母と関わって私という人間を根底に於いて規定しているのである。




2008年10月号(124)
 
  句会          

                                                    栗 田 や す し

 俳句を鑑賞する場合、俳句が短いだけに、それが作られた時と場が明らかであれば作者の感動により近づくことが出来る。
 とは言っても、句会で選をするときは作者すら分からないのだから、その俳句が何時、何処で作られたか分からないまま選をすることになる。
 句会は、自分に回ってきた俳句の善し悪しを瞬時に判断する場である。その判断の材料は十七音だけである。
 俳句を選すると言うことは、そこに列べられている言葉の一つ一つを理解し、一句全体を解釈した上で、鑑賞し、さらに評価するという作業である。
 句会中に、隣から回ってきた俳句を見て意味の分からない言葉があれば、後から調べるとしても、その場はパスするしかない。
 個々の言葉の意味を理解し、一句全体を解釈できたとしても、鑑賞、評価となると容易ではない。
 句会は指導者が自分の俳句をどう理解し、評価してくれるかが一番の関心事であるのはやむを得ないとしても、披講の後、選評を聞いて自分の選がどうであったか、どこまで鑑賞を深めて選をすることが出来たかを自己評価する場であることを忘れてはならない。
 俳句はひとりでは上達しにくいと言われる。伊吹嶺には七十を越す句会があるが、会員一人ひとりが句会の意味を理解し、句会のレベルを向上させる努力と工夫がなければ、個々の上達は難しいと言うことである。
 伊吹嶺のインターネットの会員が、チャットやオフ句会で切磋琢磨していることの意味もそこにある。

 

 2008年9月号(123) 
 

 季語を詠む

                                                    栗 田 や す し

 俳句は短い定型詩であり、しかも季語が入っていなければならない。が、単に季語が入っているというのではなく、季語が一句の中で生きて働いていなければならない。
 かつて沢木先生が「俳句は季語を詠むものだよ」とおっしゃったことがある。 私たちは即物具象による写生を目指しており、それにはまず物のありよう、つまり物の形象を正確に捉えなければならない。極言すれば物の形象のないところに私たちの目指す俳句は存在しない。
 ところで、例外はあるものの殆どの季語は形象のあるものである。言葉をかえて言えば季語の殆どは物であるということである。したがって季語と自己とのかかわり方を切実なものとしたとき、一句の中で季語が働いているということになる。
  天上に還らむとする風花あり   欣一
の句は、花びらのように宙に舞う風花を見て、先生は傷つきやすい繊細な神経と、凍るような大気の中で、なお天上に還ろうとする風花に強い意志を見て、自己とのかかわりが切実であると意識されたのである。つまり「風花」という物(季語)の本性を捉えた俳句で、まさに季語を詠んだ俳句の典型と言えよう。

 沢木先生は
  絶えず歳時記に親しんで、各季語の本情を理解しておくことが大切で、季語
  と自己とのかかわり方が切実であると、一句のなかで季語が生きる。
  (『俳句の基本』)

と書いておられる。

 私たちは「俳句は季語を詠むもの」と言われた先生の言葉の真意をしっかり汲み取らなければなるまい。




2008年8月号(122)

 
   濃あぢさゐ          

                                                    栗 田 や す し

 母の忌を修した。早いもので七回忌である。久しぶりに帰郷し父の墓にも参った。
 私が母に送ったハガキがまだあったと言って、兄が厚い封筒をくれた。中には二十一枚のハガキが入っていた。年代はばらばらで、古いものは昭和四十二年のハガキで七円である。四十二年と言えば三十歳で高校の教員時代である。ハガキには
   寒き灯が集ひ広場にデモの刻
   寒のデモ闘争の旗首に巻き
   オーバーの襟立てデモの列離る

の三句のあと「昨日は教員デモに参加しました。風邪を引くと大変なので途中で逃げ出してきましたが…」(一月十五日)とある。勤務評定反対のデモであった。
 次も昭和四十五年七月十日付の七円のハガキで、「大学院日文研究室にて」とある。

   洛中より。はやいものでもう今日の授業が終われば夏休みです。入学当初は食堂の場所さへわか   らず、戸惑うことばかりでしたが、やっと慣れたと思ったら夏休み。(略)この頃は宿へ帰るにも裏道    を歩くことにしています。一歩裏へ入るとそこには本当の京都があります。落ち着いた格子の家並は   伝統の美しさを感じさせます。
        寺町が晩学の宿濃あぢさゐ

 母への手紙には俳句を書き添える事が多かった。県立高校教諭を退職して立命館大学の院生になった年のもの。宿舎は元公家様の御屋敷で冬は隙間風に悩まされた。当時、田中文雅氏(現就実大学教授)が研究助手をされており、研究室で風邪を引いて咳き込んでいると、大津の自宅に幾度も招いてくださった。もう三十年も前のことである。
   寺町の路地リヤカーの冬菜売
は四十五年十二月十九日付のハガキに書き添えた一句である。




  2008年7月号(121)

 
   夢 の 句          

                                                    栗 田 や す し

 私は幼い頃からよく夢を見た。よくというよりも今でも毎夜見る。
 中学生のとき岡田という校長先生が夢の研究をしているとかで、教室に来られて調査をされたことがあった。そのときの私の回答に興味を示されて、後で校長室でいろいろ聞かれたことがあった。今はどんなことを聞かれたのか覚えていないが、カラーの夢をよく見るとか、同じ夢を見たり、夢の続きを見たりするといったことであったろうと思う。夢である以上、矛盾したものであったり、時空を超えたものであったりするが、そうかと言って全く荒唐無稽ではない。ほとんどが現実と関わりのある夢である。
 夢の俳句と言えば沢木先生に夢の句が多いことはよく知られている。
  薔薇開く母の日に見し父の夢
  終戦日ちちはは夢に現はれし
  なまなまと紅葉の赤を夢の中
 先生が母の日に父の夢を、終戦日にご両親の夢を見られたのは、夢が現実とは無縁の荒唐無稽なものではないことの証と言えよう。それでは、
  悪漢に追ひつめられし春の夢
の句は先生のどのような現実と関わっているのか興味深いところである。
 それはともかくとして、私もこれまでに夢の句を幾つか作っている。最近では
  桃咲くと母に告げゐし夢の中
と詠んでいる。夢なんか見たことがないという人には、でっち上げの句と思われるかも知れない。夢を詠むことは夢そのものを実証出来ないだけに難しい。
 俳句の詩因(感動)に嘘があってはならない。夢の中で見いだした詩因(感動)もやはり嘘があってはならないだろう。




2008年6月号(120)  
  

   詩因を探る          
                                          

  「伊吹嶺」は十一年目に入った。まさしく新しい第一歩を踏み出したわけである。会員も同人もいっそう積極的に実作に励み、活動して欲しいと思う。
 私たちは実作に当たっては基本を忠実に守ると言うことを忘れてはならない。
 俳句は原則として有季定型の詩である。俳句が詩であるためには有季定型という条件を守らねばならない。
 詩は感動がなければ生まれない。感動がないのにいくらことばを寄せ集めても詩にはならない。
 そこで大切なことは感動の質である。感動には詩的なものと詩的でないものとがあることを知るべきである。普段の生活の中で喜怒哀楽の情を催すが、常識的な感動からは詩は生まれない。
 例えば、子の結婚とか、孫の誕生といったこの上ない喜びといった、現実そのままのナマな感動はすぐには詩になりにくい。
 自然界(人事界も含めて)には詩因がいっぱいあるが、詩因は自分自身で探らなければならない。しかも詩となる感動は主としてものの生命(美)を中心としたものである。対象の中にいかに生命(美)を見つけ出すか、これが俳句では第一歩である。
  緑蔭に赤子一粒おかれたり     欣一
 この句は、昭和五十五年の作で、『往還』所中の一句である。緑の美しい季節に公園や遊園地でよく見かける光景である。〈おかれたり〉であるから、涼風の木陰のベンチか敷物の上に寝かされたのであろう。その赤ん坊を一粒と詠んだことにより、祖先から代々受け継がれてきた生命として赤ん坊が光り輝くのである。


2008年5月号(119)
 堅忍不抜のレアリズム  


  秋の燈を点けたる家の堅かりき     徹
 私が林徹氏から頂いた唯一の短冊である。この句の〈堅かりき〉の硬質な抒情に強く惹かれたことを今も鮮明におぼえている。
 昭和五十年、「風」編集部より三十周年記念号の特集として「林徹論」を書くように言われたのは「風」同人になって五年目の三十八歳の秋であった。ここで私は生意気にも「堅忍不抜のレアリズム」と題し十七枚ほどの小論を書き、氏の説く即物具象は、複雑な社会の中で人間を捉えるためには思考による現象を抽象的に分析し、再び現象を通して現実を表現するものであると理解し、飴山実氏の「物離れをしかねている」という批判に対して、「物離れ」と言うよりも「物の深化」を目指すものとし
  鵜篝の焔々とすぐ四十代     昭和45年
の句を例に挙げ、「四十代」という抽象的概念を「鵜篝」というまぎれもない具象物とかかわらせることによって心のうちを具象化したものと論じた。
 これは大先輩に対して怖い物知らずの荒っぽい論であったが、その氏よりすぐに丁重なお便りとともに、残部の少ない中から第一句集『架橋』を送って頂いたときは思いがけない贈り物に大いに感激したものである。
 以後、急に氏が身近に覚えた私は、様々な機会に名古屋までお出かけいただきご指導を仰ぐこととなったが、中でも、「伊吹嶺賞」では中山純子氏と共に選者をお願いしてきたのである。一昨年の犬山での綾子句碑除幕式と「欣一・綾子両先生を偲ぶ会」にもお出かけ頂き、次回の「偲ぶ会」は広島でと力強く約束してくださったことを思うとき、氏のご逝去は余りにショックが大きく言葉もなく、今はただご冥福をお祈りするばかりである。



2008年4月号(118)

俳句は最上の道づれ

 「伊吹嶺」十周年記念号の沢木先生のご講演記録を読んで、先生に直接お会いする機会のなかった伊吹嶺会員から、「風」の俳句理念を直接お聞きしているようで大変勉強になったという声を幾つも聞いた。そこで今回は、綾子先生のご講演の一部を再録する。

  俳句は自然が相手ですから千変万化で毎日新しい。その中に人間も自然の一つとして生きている。その姿を映すのが俳句ですから俳句は私の最上の道づれでした。どんな時でも道づれで、俳句が私をひっぱっててくれたような気がする。実際そうであったと思う。そうでなかったらもっとがっくりしていた。私が元気をなくしても友達がいいのでひっぱってくれた。まさに俳句は私にとって最上の道づれであった。これは私の体験です。私はいかなる時も友達と一緒にいた。悲しい時も、寂しい時も俳句という友達があった。そういう時は作品が沢山出来たり、少なかったりするが、特に孤独な時は最上の友達であった。芭蕉はことさら孤独を求め、俳句を友建としている。そこがあの人の偉いところだと思う。ひとり旅に出て、孤独である自分が自然と親しくなる。孤独であることが自分自身にもっと親しくなれる。私たちは孤独を求める事はないが、人間は本来孤独なもので、年をとってみると一層孤独になる。そういう時に本当の事が云える俳句を友建としてほしい。大げさかも知れないが「別の人生が始まる」というが全くその通りで、俳句を友達にすると自分の人生を客観視する働きが生じるのです。
                                (文責 せつ子)

(これは昭和六十年七月1日と八日に「朝日カルチャーセンター・立川教室でのご講演で、先生のお許しを得て「あいち風句会報」昭60・7に掲載したものである。)


2008年3月号(117)

   
ハワイ歳時記

 伊吹嶺では創刊以来インターネット部を設けて、世界中の俳句愛好者と手を繋ぎ、日本の伝統詩である俳句を地球規模で後の世代に引き継ぐことを目標の一つに掲げてきた。
 ここに一冊の歳時記がある。それは十五年ほど前にハワイ大学に二週間ほど滞在したとき、田中文雅先生のお兄さん(ハワイ大学教授)に紹介していただいて、現地の二世のみなさんの句会に参加した時に頂戴した『ハワイ歳時記』(元山玉萩編)である。
 ここにはハワイ特有の季語が納められている。たとえば「夜の虹」というのがあり、
  うすれゆく王の叱咤の夜の虹   玉萩
  降り尽きてヒロに雨なし夜の虹  松青
などの例句が列挙されている。が、ハワイの歴史、風土を知り、実際にハワイを訪れた人でないと「夜の虹」は理解できないであろう。季語「夜の虹」はマノア谷の夜の虹を言い、満月の夜に淡い霧があるとき、かすかに五彩をたたえるのを言い、女神の恋のかけ橋という伝説もあるという。私はお兄さんに連れて行っていただいたが残念ながら昼であった。
 ハワイ特有の季語を本当に理解するには現地に立たなければならない。だからといって理解しようとしないのは間違っている。考えてみるといい。国内の季語でも家の中でじっと座っていては理解できない季語、たとえば「三河花祭」「鰊曇」「ペーロン」など幾らでもある。逆に『ハワイ歳時記』には「四月馬鹿」「涅槃」「鶯」「蜜柑」「香水」「風鈴」など馴染みの季語が満載されているのである。
 中国、ドイツ、フランスなどなど、地球上のいたるところで日本語で現地の俳句を作り、お互いに交流し、理解し協力し合うことこそ伊吹嶺が目指す地球規模で日本の伝統詩である俳句を正しく後世に伝える確かな道と考えているのだが間違っているだろうか。


  2008年2月号(116) 

 伊吹嶺季寄せ

 平成二十年の元日は穏やかな一日であった。
毎年、熱田さんの初詣でお神籤を引くが、今年は「中吉」であった。熱田さん宣わく
   開運の時がくる。但し、急ぐべからず。謹んで静かに事を為せば次第に意の如くなる。千  里の道も一歩から。あせらず努力せよ。
 昨秋の運営委員会で「伊吹嶺」では十五周年に『伊吹嶺季寄せ』の刊行を正式に決めた。
 この事業は出版部が中心となって企画編集するが、無事完成させるためには伊吹嶺の五百余名の仲間が一丸となって取りかからねばならない。
 私達はこれまで合同句文集『俳句は花』(昭和62)、吟行案内『愛知の俳句散歩』(平成4)、同『新訂愛知の俳句散歩』(平9)、『伊吹嶺俳句集』(平19)を刊行した実績を持つ。
 『愛知の俳句散歩』の序で沢木欣一先生は、
   この書は愛知県下の『風』の同人、会員百七十名の総力を結集して例句や解説に約十年を  かけたという。『俳句散歩』と地味な名称であるが、実質は正確緻密で地方吟行案内とし  ては完璧の出来ばえである。
と書いてくださった。
 今回の『季寄せ』も例句は「風」「伊吹嶺」に掲載された作品に限ることとする。従って、
『俳句散歩』の折に積極的に県下の各地を吟行したように、この企画をバネにして各自がいろんな季語に幅広く挑戦して貰いたい。今回は五年計画であるが、同人、会員五百余名のパワーを結集して立派に完成させたいものである。
 千里の道も一歩から。「あせらず努力する」ことを神に誓った元日であった。


  2008年1月号(115) 

   伊吹嶺の10年

 「伊吹嶺」創刊以来十年の歳月が流れました。十年一昔、創刊の年還暦であった私も古希を迎えました。今更ながら歳月の容赦ない早さに驚いています。「伊吹嶺」の十年は実に永かったと思いたいのに、実感として瞬間に過ぎ去った感じですが、この間、「伊吹嶺」は同人・会員の皆さんは勿論のこと、俳壇の先輩、それに多くの友人に支えられて今日まで歩んで来られたことに感謝の念でいっぱいです。
 私たちは十周年を迎えるに当たり
  一、細見綾子先生の句碑の建立
  二、記念賞の募集と顕彰
  三、十周年記念大会と祝賀会の開催
  四、合同句集『伊吹嶺俳句集』の刊行
  五、「伊吹嶺」十周年記念号の発行

の五つの記念事業を企画しましたが、この記念号(一月号)の発行をもって完結することになります。これも偏に、運営委員会を軸に各部の皆さんが一丸となって推進してくださったおかげと感謝しています。
 私は「伊吹嶺」創刊号に「先ず十年後の『伊吹嶺』を楽しみに仲間とともに努力たい。」と書きました。また、
  「伊吹嶺」は 俳句における文芸性の確立 を念願して創刊された「風」の理念を基本に  据え、即物具象の俳句をめざすとともに、日本の伝統詩としての俳句を若い世代に正しく  伝えることを目指す。
とも書きました。この指標は今も変わることはありません。
 「伊吹嶺」が創刊以来力を注いでいるのはインターネットの活用です。
 「伊吹嶺」を創刊した平成十年四月十一日の「中日新聞」で文化部の金井記者が「平成俳句事情」⑤を書いています。
   この一月、インターネット上に「俳句雑誌『伊吹嶺』創刊のご案内」が載った。
  「伊吹嶺」の主宰は栗田やすしさん=名古屋市・栗田やすしさんが支部長を務める俳誌「  風」(沢木欣一主宰)愛知県支部の二十五周年を期しての創刊だが、ホームページでの創  刊宣言というのはなかなか新鮮だった。(略)

  
 インターネットのもつ即時性、データーベースやリンク機能は俳句世界にも新しいスタ  イルを生み出しつつある。(以下略)
とあり、「インターネット俳句はお気軽な遊びを量産するだけの危険性をはらんでいる」とする俳人の指摘に対して「かといって 俳句の本質とインターネットは無関係」と、無関心を決め込むのもどうか。()現在の俳句会の主流形態である結社が、何時までも中心とはかぎらない。」と結んでいます。
 「伊吹嶺」のインターネットの十年はまさに試行錯誤の十年でしたが、インターネット部を中心に着実にその成果を上げつつあることを大変頼もしく思っています。
 それだけ俳誌「伊吹嶺」の役割が一層重要になったと言えましょう。
 この十周年を機に、私たちは更に気を引き締めて二十周年に向けて、「気宇壮大」の気構えを忘れることなく、前進したいものです。幸い「伊吹嶺」には新しい力が台頭しつつあります。新旧力を合わせて、これからも勇猛心を奮い起こして俳句作りに邁進しましょう。
 最後になりましたが、この記念号のために玉稿をお寄せ下さいました諸先生、先輩、友人に心よりお礼申し上げます。

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